渋沢教会
更新日:2009.08.10

8月2日 詩編による御言葉の説教<赦しの確証>

浜崎 孝牧師
詩篇25編1〜22節
ローマの信徒への手紙8章1〜3節

渋沢教会の主日礼拝順序には、「罪の告白・赦しの確証」があります。私どもはそこで、罪の告白をしている詩編を5個所選び(25編6〜14節、 32編1〜6節、51編1〜19節、130編1〜8節、143編1〜6節)、司式者と礼拝者とで交互に朗読しています。きょうは、 詩編130:1〜8を交読(こうどく)しましたね。そして、きょうの「み言(ことば)の説教」で読むことになった詩編25編は、 「罪の告白・赦しの確証」で交読している聖書個所を含んでいることをお気づきになったことでしょう。というわけで、きょうは、 主日礼拝の中で、礼拝者が共々に「罪の告白」をすることについての正しい理解を分かち合うことになります。


さて、主日礼拝の中で「罪の告白」をするのは、長老教会の伝統です。長老教会の最初の指導者の一人カルヴァン先生たちがしていた主日礼拝の内容を調べてみると、 最初の方に「罪の告白」があり、それに続けて聖書の言葉を引きつつ「赦しの宣言」が語りかけられたことがわかるのです。つまり、 主なる神さまとの和解を確認して主日礼拝が始まるのです。そして、それが改革派の主日礼拝の特色なのです。 16世紀の教会改革運動に先鞭(せんべん)をつけたマルティン・ブーツァー(1491〜1551)たちの主日礼拝順序も「罪の告白」から始まり、 「赦しの宣言」がそれに続いています。そして、これらは、礼拝者がみ言葉の恵みを受けるために主なる神さまの御(み)前に出る準備になったのです。


新約聖書のヨハネの手紙 一 1:9〜10には、次のように記されています。「自分の罪(つみ)を公(おおやけ)に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、 罪を赦し、あらゆる不義(ふぎ)からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、 神の言葉はわたしたちの内(うち)にありません。」――主日礼拝の中で「罪の告白」をすることは、聖書から教えられている大切な事柄なのです。 ヨハネの手紙は、この直ぐ前のところに、「御子(みこ)イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(7)とも記しています。 キリスト教会の礼拝者にふさわしいのは、「自分には罪がない」と言って自分を欺(あざむ)いている人ではなく、 救い主(ぬし)イエスさまの愛を信頼して罪の赦しを願い求める人々なのです。ローマの信徒への手紙も、 神さまは私どもの「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断(しょだん)されたのです」 (8:3)と語りかけていましたね。自分の罪を信実に言い表し、 慈(いつく)しみ深い神さまに罪の赦しを祈り求める人々――そういう人々がキリスト教会の礼拝者としてふさわしいのです。


それでは、詩編第25編の信仰者はどのような罪を公に言い表したでしょうか。この人は、「わたしの若いときの罪と背(そむ)きは思い起こさず/慈しみ深く、 御(み)恵みのために 主(しゅ)よ、わたしを御(み)心に留(と)めてください。」(7)と祈っています。「若いときの罪」……。あのヨブも、主なる神さまに向かって、 「若い日の罪」(ヨブ記13:26)のことを語りかけていましたね。他方、預言者(よげんしゃ)エレミヤは、 神の民(たみ)の歴史を振り返りつつ若いときからの背きというものを語っています。「我々は恥の中に横たわり/辱(はずかし)めに覆(おお)われています。 /我々は主なる神に罪を犯しました。/我々も、先祖も/若いときから今日(こんにち)に至るまで/主なる神の御(み)声に聞き従いませんでした。」 (3:25)――私どもも、「若いときの罪」を想い起こしている人間ではないでしょうか。聖書を読んでいると、 忘れていた「若い日の罪」が甦(よみがえ)って来ることもあるのです。そして、そういう体験は、「罪の告白」を誠実に言い表すことへと結びつけずにはいないのです。


詩編25編の信仰の詩人は、「主は恵み深く正しくいまし/罪人に道を示してくださいます。」(8)とも言っています。この人は、 自分は罪人の一人だということを主ヤーウェの前で認めている人間なのです。そして、この人は、 「主よ、あなたの御(み)名のために 罪深いわたしをお赦しください」(11)と祈っています。……「罪深いわたし」ということを信実に告白した人が、 恵み深い主ヤーウェ(8)との出会いを豊かに体験したのです。


信仰の詩人は、18節のところで次のようにも祈っています。「御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。 /どうかわたしの罪を取り除いてください。」――詩人が取り除いてくださいと願った「わたしの罪」は、前の口語訳では「わたしのすべての罪」でした。 主なる神さまの前で想い起こすことが出来た罪は、一つや二つではなかったのです。「すべての罪」と言い表さなければならないものだと自覚させられていたのです。 だからこそ、「罪深いわたしをお赦しください」という祈りにもなったのです。そして、私どもも信仰の詩人のように「御覧ください」と語りかけるなら、 私どもにも罪が根本的な原因になった「わたしの貧しさと労苦」といった現実が数え出されるのではないでしょうか。


ところで、これがとても大切なことなのですが、信仰の詩人の「罪の告白」は主ヤーウェの「とこしえの憐(あわ)れみと慈しみ」 (6)を信頼しつつなされています。この人は、主ヤーウェへの信頼から語り始めましたね。「主よ、わたしの魂(たましい)はあなたを仰ぎ望み/わたしの神よ、 あなたに依(よ)り頼みます。」(1〜2)――「あなたに依り頼みます」は、前の口語訳では「あなたに信頼します」でした。こういう主ヤーウェへの信頼は、 この詩のバックグラウンドになっていて「信頼」の表現は幾つも見出(みいだ)されます。


「あなたに望みをおく者はだれも 決して恥を受けることはありません。」(3a)「あなたのまことにわたしを導いてください。 /教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。/絶えることなくあなたに望みをおいています。」(5)「主は恵み深く正しくいまし /罪人に道を示してくださいます。/裁きをして貧しい人を導き/主の道を貧しい人に教えてくださいます。/その契約と定(さだ)めを守る人にとって /主の道はすべて、慈しみとまこと。」(8〜10)「わたしはいつも主に目を注(そそ)いでいます。/わたしの足を網(あみ)から引き出してくださる方(かた)に。」 (15)「御(み)もとに身を寄せます」(20)「あなたに望みをおき、無垢(むく)でまっすぐなら/そのことがわたしを守ってくれるでしょう。」 (21)……主ヤーウェの「とこしえの憐れみ(ラハミーム『母胎を表すレヘムからの派生語』)と慈しみ (へセド『キリストの愛を表すアガペーに対応するヘブライ語』)」への信頼に溢れていますね。そして、 これが「赦しの確証」という主日礼拝順序の表示を正しく理解させてくれるものなのです。


「罪の告白」という言葉には、どこか重苦(おもくる)しいものを感じさせるものがあるのではないでしょうか。けれども、 詩編25編から教えられる「罪の告白」は感謝と喜びをもっての告白です。なぜなら、あのように篤(あつ)い信頼が言い表されるところには、 主なる神さまへの感謝が伴(ともな)っているはずですし、人間らしい喜びに包まれていたのではないでしょうか……。 主ヤーウェへの信頼を表明することから始まった「罪の告白」――そこには、罪深いわたしが「とこしえの憐れみと慈しみ」を受け、 受け容(い)れられたという「赦しの確証」があるのです。


マルコによる福音書2:1以下の中風(ちゅうぶ)の人が癒された出来事には、その病人の「罪の告白」については何も語られていません。 でも、イエスさまは彼に語りかけたのです。「子よ、あなたの罪は赦される」(5)と。この出来事では、 キリスト・イエスさまから「赦しの宣言」が先になされているのです。そして、こういうことを詩編25編にも想い起こすことが出来るのです。 つまり、先(ま)ず主なる神さまから愛され、受け容れられたことを知ったのです。そして、 そういう人は感謝と喜びをもって「罪の告白」という大切なことが進んで出来るようになるのです。重苦しい「罪の告白」ではなく、感謝と喜びに包まれたそれ……。 こういう「罪の告白」は、告白者に豊かな祝福が待っています。「わたしが自分の罪を言い表さなかった時は、 /ひねもす苦しみうめいたので、/わたしの骨はふるび衰えた」(詩編32:3口語訳)と言うような重荷からの解放もその祝福の一つです。


私どもは、これからも毎週、主日礼拝の始めの方で「罪の告白・赦しの確証」を共にします。詩編25編の信仰の先輩は、 その私どもを祝福してくれたのです。どうか、その都度(つど)イエスさまの赦しの宣言が想い起こされ、喜びの「罪の告白」になりますように。お祈りしましょう。