渋沢教会
更新日:2009.10.28

10月25日  ヤコブの手紙による御言葉の説教

                                  「憐れみは裁きに打ち勝つ」

浜崎 孝牧師
エレミヤ書31章18〜20節
ヤコブの手紙2章1〜13節

新約聖書のヤコブの手紙は、「人に憐れみをかけない者には、 憐れみのない裁きがくだされます」と教えていますが、皆さんは人に憐れみをかける者になったことがありますか。 数年前の夏、「ばいぶる・キャンプ」に参加した私どもは、 東海自然遊歩道を本栖湖に向かって5キロほど歩きました。 途中、大きな水溜りに行く手を阻まれ、遠回りをさせられたのですが、 それがかえって薄紫色のマツムシソウや可愛い花々が群生している草原に出会うことになり、 私どもは歓声をあげながら富士の裾野の自然を満喫しました。私どものキャンプ場の近くに、 「こんな美しい所があったなんて……、今度、 教会の〇〇さんたちを連れて来てあげたいね」などと暢(のん)気なことを言いながら歩いていたのでした。 やがて、道の前方から乗用車がやって来て、私と同年輩くらいの男性が立ちはだかり、 「ここに入って来ちゃ困るんだけどな……」と言われました。どうやら私どもは、いつの間にか東海自然遊歩道を外れ、 オートキャンプ場のオフロード・コースのような所へ迷いこんだらしいのです。 私は、「東海自然遊歩道を本栖湖に向かって歩いて来たんですが」と応じたのですが、その男性はどう対応したと思いますか。 その人は、「東海自然遊歩道ならそっちから行けるから」と教えてくれ、今少し私有地内を前進させてくれたのでした。 その人は、「戻(もど)れ」と厳しく裁くのではなく、憐れみをかけてくれたのでした。


話は変わりますが、これは渋沢の教会員の家へ週報などを届けた時のことです。 私どもの仲間の家は、車1台が通れるほどの細い道に面していたのですが、 ちょうどその道の反対側は数台の車がとめられる空き地になっていましたので、 私は郵便受けに行くほんのちょっとの間そこに停車させて貰おうとしました。 すると、その空き地の隣の畑から年上の男性が、「そこに停めちゃだめだ」と声をかけたのです。 私は、「そこの郵便受けに入れたら直ぐどけますので……」と言ったのですが、その人は強い口調で「だめだ!」と拒みました。 もう少し大らかに出来ないものか……と、私はちょっと悲しい不快な気分になりました。 渋沢教会の駐車場は、近隣の人たちの臨時や一時駐車場になることを受け容れていますね。 車の方向転換に利用している人を見たこともあります。 この礼拝堂は、この地域の複数のコーラス・グループの練習場に無償で提供しています。 土地も建物もつきつめて考えるなら神さまのものです。 ですから、お互いのために役立てる心を宿して行きたいものです。 キリスト・イエスさまは、「憐れみ深い人は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」(マタイによる福音書5:7)とお教えになりました。 私どもは、そういう幸いに生きたいのです。


今朝朗読された旧約聖書のエレミヤの預言は、次のようなものでした。 「エフライムはわたしのかけがえのない息子/喜びを与えてくれる子ではないか。 /彼を退けるたびに/わたしは更に、彼を深く心に留める。/彼のゆえに、胸は高鳴り /わたしは彼を憐れまずにはいられないと/主は言われる。」――エフライムというのは、神の民のことです。 そして、「彼を退けるたびに」というのは、神の民が信仰の道を外れて罪の荒野に迷い込み、 主なる神さまへの反逆を繰り返し、神さまを深く悲しませ、また大いに怒らせたので、 神さまはご自身の民を裁かないわけにはいかなくなったということを表しています。しかし、どうでしょうか。 主なる神さまのお心には、その度にご自身の民を憐れまずにはいられないという慈悲の思いが込み上げたというのです。 主なる神さまの内側では、憐れみが裁きに打ち勝ってしまったのです。 同(おな)じ旧約聖書の詩編103編8節に記されている賛美は、こうです。 「主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。」主なる神さまは、 「その心の慈悲の泉を枯らすことができない方である」(P.C.クレイギ)のです。


主なる神さまが憐れみ深く、その慈しみは大きいということ、 これは救い主イエスさまの十字架の出来事をとおして私どもに示されました。 キリストの十字架の出来事こそ、神さまの憐れみが形をとったものなのです。全人類の罪を贖うために――つまり、 この私どもを罪の泥沼から救い出してくださるために、主なる神さまの独り子が代わりに死んでくださったという十字架の出来事は、 罪深い私どもを「憐れまずにはいられない」という神さまの慈悲によるものだったのです。キリスト・イエスさまは、 十字架の上からご自身を呪った人々のため、「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23:34)と祈られたのでした。 それこそ、憐れみは裁きに打ち勝ったということを語りかけるものです。


新約聖書のユダの手紙は、「わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」(21)と語りかけています。 私どもが今日こうして教会生活が出来、永遠の命へ導いていただける幸いを受けているのは、 あの十字架の出来事をとおして知った主イエスさまの憐れみによるのです。そして、そうであればこそヤコブの手紙の勧告は大切なのです。


ヤコブは、「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、 人を分け隔てしてはなりません」(1)と勧告しましたね。 もしヤコブが2〜3節に書いた差別的なことを教会の集まりに見出すなら、 その教会の人々は主イエスさまから受けた憐れみから遠くかけ離れてしまったということがわかるのです。


ヤコブは、「よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、 御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」(5)と語りかけています。 初代教会には裕福な人たちもいたようですが、むしろ貧しい人たちが大勢導かれていたのです (コリントの信徒への手紙 一 1:26以下参照)。そして、そういうところにも神さまの憐れみは働いていたのです。 ヤコブは、「だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた」(6)と指摘していますが、そういう教会は自分自身を見失っているのです。 神さまの選びの愛への感謝を忘れた教会があった……。 私どもは、神さまの「あえて」の愛である憐れみを受けた者だという記憶とそのことへの感謝と応答とを大切にし、 誰であろうと「『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行し」 (8)て行きたいものです。「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます」(13)と記されていますが、 「人に憐れみをかけない者」は教会やキリスト者のイメージからは遠くかけ離れているということをしっかり憶えましょう。


先週水曜日の新聞に、 英国国教会のキリスト者フランシス・ドミニカ姉の来日を伝える記事が載っていました。 ドミニカさんは、治療が難しい病気の子どもと家族を支える 「子どものホスピス」づくりに力を尽くして来た女性です。その奉仕の始まりは、 「ある一家との出会いから」だそうです。「2歳の娘に回復の見込みがないと医者に告げられ、 両親は自宅での介護に疲れきっていた」のです。 女子修道院長を努めていたドミニカさんは、 「『お嬢さんを時々預からせて』」と憐れみをかけたところ、 申し出を受けたご両親は「熟睡できたと言ってくれた」のでした。 今は、無料で利用できる「子どものホスピス」は英国に40個所以上出来ているということでした。


きょうの午後には、渋沢教会の女性たちの主催で第31回友愛セールが開かれます。 これは、社会福祉法人「あけぼの園」と日本ユネスコ協会連盟の 「世界寺子屋運動」への小さな隣人愛の実践です。今から31年前、 私どもの教会の仲間がご夫妻で私財を投じ、心身障がい児通園施設を開設されたのでした。 その愛は、開設当初テレビのニュースでも報じられました。そして、そういう働きを傍らにあって見つめていた私どもには、 何かお手伝いはできないものか……という想いが込み上げたのです。「あけぼの園」がお仕えしているお子さんたちの親御さんたちも、 苦闘していらっしゃるのです。ですから私どもも、主イエスさまの憐れみに揺り動かされ、ささやかな憐れみをかけることにしました。 それが友愛セールの始まりです。どうぞこれからも、「憐れみは裁きに打ち勝つ」ということが豊かに見出される社会を祈り求めて行きましょう。 キリスト・イエスさまは私どもに、「憐れみ」を求めていらっしゃるのです(マタイによる福音書9:13参照)。お祈りしましょう。