渋沢教会
更新日:2009.11.21

11月15日 ペトロの手紙一による説教『まことに価値あること』

古畑 和彦牧師
ホセア書 第2章16〜25節
ペトロの手紙一 第3章 1〜 7節

序 命と生命


私の卒業した神学校で毎年、10月に講演会が行われます。今年は、長くホスピスの働きをしてきました金城学院大学学長の柏木(かしわぎ)哲夫先生が 「いのち・こころ・いやし」と題してお話をしてくださいました。その講演の一部を紹介して、今日の説教の導入としたいと思います。 最初に柏木先生は、大阪大学名誉教授であった中川米造医師の言葉を紹介します。「私の生命(せいめい)は間もなく終焉を迎えます。 しかし、私の命、すなわち私の存在の意味、私の価値観は永遠に生き続けます。ですから、私は死が怖くありません」。 柏木先生は、人間には、有限的、閉鎖的、客観的な生命(せいめい)のほかに、無限的、開放的、主観的な命というものがあることをお話しされました。 人はたとえ生命(せいめい)が終わりを迎えても、命に生きることができるのです。ホスピスにおいては、もはや生命(せいめい)の癒しをすることはできません。 しかし、命の癒しはできるのです。そして、それこそが、人々が渇望しているものであると語られました。 そのうえで、死を迎える人々が命に生きる者とさせるために私たちに何ができるのかを教えてくださいました。


1.まことに価値あること――命の恵みを共に受け継ぐ

この命のことが3章7節に出てきます。「同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。 そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」。ここに出てくる「命の恵み」とは、キリスト者に恵みとして与えられる永遠の命を指します。 ペトロは、夫婦とはこの「命の恵みを共に受け継ぐ者」であるといいます。この「受け継ぐ」というのは、相続人という意味の言葉です。 自分が受け継ぐ財産、それは、命の恵みの祝福です。生命(せいめい)は、時が来れば終わりが来ますが、命は永遠に続くものです。 生命(せいめい)は、夫婦であろうとも、一緒に「受け継ぐ」ことはできませんが、命は「共に受け継ぐ」ことができるのです。

それでは、どうしたら、「命の恵み……受け継ぐ」ことができるのでしょうか。この関連で、ひとつ聖書の言葉を読みたいと思います。 それはガラテヤの信徒への手紙第4章の5節から7節までの言葉です。「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。 あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」。 「アッバ」というのは、幼児が父親を呼ぶ、最も素朴な言葉です。パウロは、私たちが神を「アッバ、父よ」と呼ぶとき、 もうすでにそこで、神の子としての生き始めていると言います。「御子の霊」というのは、主イエスの霊ということです。 「霊」という言葉は、息とも訳せる言葉です。命の息です。私たちは、この命の息をいただくことによって、 「神の子」として「生きる者となった」(創世記2章7節)のです。そして、「神の子」であれば、「命の恵み」を「受け継ぐ者」、 すなわち「神によって立てられた相続人」となるわけです。このことから言いますと、夫婦が「命の恵みを共に受け継ぐ者」ために必要なのは、 「共に」神に向かって、「アッバ、父よ」と祈る祈りが必要となってきます。祈りというのは、難しい言葉ですることもあるでしょう。 長い祈りもあるかもしれません。いろいろな内容を待った、豊かな祈りもあるかもしれません。しかし、その祈りを形作る根元にあるものは、 ただ「アッバ、父よ」と神を呼ぶ単純な言葉です。その祈りに生きることなしに夫婦が「命の恵みを共に受け継ぐ者」となることはできないのです。 言い換ええれば、「命の恵みを共に受け継ぐ者」とは、「祈り」に生きる者であるということができます。ペトロの手紙一の3章7節の後半に「そうすれば、 あなたがたの祈りが妨げられることはありません」と突然、祈りのことが出てきているのはそのような理由によるのです。


夫婦が互いの祈りを妨げるような状況に中では、「命の恵みを共に受け継ぐ者」となることはできないのです。そのために夫に勧められているのは「同じように、 夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」ということです。まずペトロは、 妻の弱さをあげ、女性であるための弱さを知っていたわるべきであると教えます。当時は、ことに妻の地位が低く、夫の特権が重んじられていた時代でした。 離縁状は夫の方からのみ出され、妻は泣き寝入りする時代でした。それで夫の妻に対する深い理解を必要としていました。 「わきまえて」の直訳は「知識に従って」です。キリスト者の知識とは、なによりも神についての知識と感受性に基づく洞察力です。 柏木先生は、人を癒すために必要なことは、@気づき、A感動、B行動 であると言います。夫は、妻の必要に気づき、 心を動かして具体的な行動を取ることが求められているのです。


「妻を自分よりも弱いものだとわきまえて」は女性蔑視ではありません。弱いからと言って馬鹿にすることではありません。 また弱い者は、強い者に服従しなければならないというのでもありません。もしもそうであるなら、続いて「尊敬しなさい」とはならないでしょう。 パウロは、自分の弱さに直面した時に「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」 (Uコリント12・9)と言っています。夫にも妻とは違う次元で弱さがあります。弱い者どうし、ただ「アッバ、父よ」と神を呼び、 「キリストの力がわたしの内に宿るように」祈り求めるのです。そのようにして、一緒に「命の恵みを共に受け継ぐ」生き方をしていくのです。 そのような生き方において、夫は妻を「尊敬」するのです。


2.まことに価値あること――無言の行いによる神を畏れる純真な生活

ここまでは、夫婦が互いに祈りあえることを前提にしています。当然、片方が信仰者でない場合はどうするのかという課題が出てきます。 そこで、ここに妻に対して語られた1〜6節の御言葉が真理となります。このペトロの第一の手紙は、夫について語るよりも、妻について長々と語ります。 おそらく、いまも昔も変わらず、教会に集まる方の中に婦人が多かったのかもしれません。その婦人たちのさまざまな訴えが、あったのであろうかと思います。 自分の夫が、祈ってくれる夫ならいいのだけれども、祈ろうともしない。御言葉に耳を傾けようともしない。ある人は、妻が先に信仰に入ったことをあまり好まない。 一生懸命、言葉をかけても耳を傾けてくれないのかもしれない。あるいは、お前の言うことは、結構なことだと言いながら、しかし本当には、信仰を分け合ってくれない。 そういう悲しみが、訴えられていたのかもしれません。言葉が通じない悲しみがあり、祈ることにおいて、ひとつになるなどという説教を聞けば聞くほど、 悲しまざるを得ないような現実を抱え込んでいる妻たちが、いたのではないかと思います。

その時に、このペトロの第一の手紙は申します。「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、 妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」(1節)。「同じように」とは、2章18節以下に出てきた、 家で働く奴隷がキリストの模範にならい主人を敬って従うのと同じようにという意味です。これは妻を奴隷扱いすることではありません。 7節では夫に対しても「同じように……しなさい」と命じています。「同じように」とは、キリストの模範に従うことにおいて同じということです。 キリストの模範に生きることが夫たちにも、妻たちにも求められているのです。


さて、ペトロは「御言葉を信じない」夫でさえも、救いに入れられるようになる、道がある。それが妻の「無言の行い」であると言います。 この「行い」というのは、そのもともとの意味は、「歩み」です。妻は黙って歩き続ける。その無言の妻の歩みを通して夫が「信仰に導かれる」のです。 「行い」と言っても、特別な行いではないのです。妻が毎日歩き続けている、その歩みからちょっとそれて、 特別なことを主人にしてあげるというようなことではないのです。毎日こつこつ歩き続けている歩みの中に、神の言葉が体と一体化するのです。 「無言の行い」とは、神の言葉を疎かにするのではありません。神の言葉が、 私たちの歩みの中に入り込んでしまうことなのです。このことは妻についての教えの中で語られていますが、 ただ妻だけについて語られるべきことではないことはもちろんです。夫だって、御言葉と一体となった「無言の行い」が求められていることは言うまでもありません。


どのようにしたら、神の言葉と一体化したような生活ができるでしょうか。「神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」(2節)。 この「純真」というのは、道徳的な純真さを意味する言葉ではありません。これはペトロの手紙が絶えず使っている言葉で 「神のものになっている」という意味の聖さです。神を畏れ、神のものになり切っている、そこに根差す聖さです。「神を畏れる」とは、 夫と共に生きる生活の背後に、神の御心があることを知ることです。御言葉に従わない夫を、信仰者である妻は、熱心であればあるほど、 時に軽んじることがあります。馬鹿にすることもあるかもしれません。それでいて、夫を恐れ、夫を取り巻く社会を恐れるということが起こってきます。 しかし、このあと6節で見ますが、真実に「神を畏れる」者は、「何事も恐れない」生き方ができる者となります。真実の畏れに立ちながら、 純真な生活に生きるようになるのです。そのことによって、神の言葉が、自分の行いを通じて、明らかになるのです。未信者の夫は、 このような妻の「神を畏れる……純真な生活」から信仰へと導かれるというのです。これは未信者の妻に対する信者である夫の生き方であり、 未信者の親に対する信者である子の生き方、未信者の子に対する信者である親の生き方であることは言うまでもありません。 私たちにとって大事なことは、私たちの日常の歩み、きわめて日常的な地味な生活の中に神の言葉が入り込んで一体となるということなのです。


3.まことに価値あること――内面的な人柄の充実

その流れの中で、妻に対して「装い」についての勧めがされていきます。「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、 あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、 内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。」(3、4節)。 「編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服」は、古代から女性の関心事の1つでした。ペトロは飾り物を全く否定しているというのではありませんが、 それよりもっと大切な身につけるべきものについて述べています。それは、「内面的な人柄」です。この語の直訳は「心の隠れた人」であり、 心の中に宿っている内的人格という意味で、3節の「外面的なもの」と対照されています。「内面的な人柄」というのは、神の子として生きている者の、 その最も深いところに、はぐくまれている心をもってということです。パウロはエフェソの信徒への手紙の中では次のように祈っています。 「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、 あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(3章16、17節)。私たちが、「アッバ、父よ」と父なる神を呼び続けるとき、 この隠れた内なる人は、強められて、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるのです。


ペトロは、「内面的な人柄」は、「柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られ」なければならないとします。 「しとやか」という日本語は、広辞苑によりますと「言語・動作が落ち着いて上品なさま、また、性情(性格の「性」、 情熱の「情」)のおだやかでたしなみの深いさま」とあります。ある人は、このような表現は女性にある特定の価値基準を押しつけるものだと反発します。 しかし、先ほど、私は、ここに記されていることは「キリストの模範に生きることが夫たちにも、妻たちにも求められている」と言いました。主イエスは、 ご自身のことを「わたしは柔和で謙遜な者」(マタイ11章29節)だと語られました。また「言語・動作が落ち着いて上品」 「性情のおだやかでたしなみの深い」はまさに、主イエスのご性質そのものではないでしょうか。そうとすれば、ここに語られる、 「朽ちないもので飾られた」美しさを持っているのは、主イエス・キリストにほかならないのです。男であろうが、女であろうが「柔和でしとやかな気立て」は、 主イエスの模範にいる者として、私たちが身に帯びるべきものなのです。それゆえ「神の御前でまことに価値がある」と言われるのです。


4.まことに価値あること――神に望みを託した生き方

次に以上のような内面の飾りを持った婦人の例があげられます。「その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。 たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです」(5、6節)。 この「聖なる婦人たち」というのは、旧約聖書が伝えるユダヤの信仰の歴史の中で、信仰に生きてきた婦人たちのことを指し示しています。 そこには、その婦人たちによって担われて来た神の民の歴史がありました。その神の民の歴史を担ってきた婦人たちは、神に望みを託していました。 神だけを望む。その望みに生きたのです。ここに代表者としてサラが出てまいります。「サラは、アブラハムを主人と呼んで」と6節では書いています。 サラは、夫アブラハムと共に、「望み得ない時に望みに生きる」という神に望みを託す生き方をしてきました。そこで、 サラはアブラハムを私の主人だと呼び、そのアブラハムの信仰の歩みに従ったのです。神に望みを託したからこそ、 アブラハムを自分の夫として重んじることができたというのです。


結論 まことに価値があることに生きる

6節に「あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです」とあります。主イエスは、 いろいろなことへの恐れにとらわれて身動きの取れない私たちに、私たちの命を奪うことができない人を、どうして恐れるのかと、 実に大胆な言葉でお語りになりました。人は、私たちの生命(せいめい)は奪うかもしれません。しかし、人は私たちの命を奪うことはできないのです。 それができるのは神のみです。ペトロは、妻であろうが、夫であろうが、私たちの命をしっかりと握っておられる神を畏れながら「アッバ、父よ」と幼子のように神に叫ぶ、 それが私たちの信仰の歩みであると記しました。その生き方が、周りの方々への「無言」の証しになるのです。それこそが、 「神の御前でまことに価値がある」生き方なのです。そのような生き方を私たちなりに生きていきましょう。

祈祷

主イエス・キリストの父なる御神。私たちのささやかな日々の歩みを祝福してください。私たちの生活の中で、いつでも祈りがその中心になり、 祈りの生活を妨げることがないような、お互いの努力が私たちの生活を作るものとなりますように導いてください。どうぞ、そうした私たちのあかしの生活を通じて、 御言葉に従わぬ夫、御言葉に従わぬ子どもたち、友人たちとの生活の中で、私たちが、それらの人びとにとっての神の祝福の泉となることができますように。 私たちが「神の御前でまことに価値がある」ことのために生きることができますように。主のみ名によって祈ります。 アーメン。