渋沢教会
更新日:2009.11.28

11月22日 詩編による御言葉の説教「どのようなときも賛美」

浜崎 孝牧師
詩編34編1〜23節
テサロニケの信徒への手紙一 5章16〜18節

詩編34編は、「どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。」 (2)と語りだします。まるで誓約をしているかのようです(「健やかなときも、病むときも」というあの結婚式の誓約を想起)。 詩人は、どのようなときを想い起こしていたのでしょうか。まず1節の表題のところに、「追放されたとき」という表現が見出されます。 この表題が語っている出来事は、サムエル記上21章に記されています。サウル王から殺されそうになったダビデの逃走劇が記されているのです。 詩編の編集者は、「ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに」と書いていますがこれは事実誤認です。 アビメレク(アヒメレク)はダビデに好意を示してくれた「ノブの祭司」であり、 ダビデは「ガトの王アキシュ」の前で狂気の人を装わなければならない苦境に立たされたのでした。 そして、詩人は、そういう惨めなときにも「わたしは主をたたえ、賛美を歌います」と言い表したのです。


「どのようなときも」ということで気づかされる表現は他にもあります。例えば5節には、「脅かすものから」苦しめられるときがあります。 6節には、「辱めに」あうときがあります。7節と18節には、「苦難」のときがあります。20節と22節には「災い」のときがあり、 それが「重なる」ときがあるのです。22節からは、憎しみを受けるときというものを想い起こすことが出来ます。 さらに、23節からは、謂(いわ)れの無い「罪に定められる」ときもあるということを気づかされます。いかがでしょうか。 こうしてみると、「どのようなときも、わたしは主をたたえ、賛美します」と言い表すことは大変なことであり、 「私は、そういうことは言わないでおこう」というような想いになる人がいるかもしれません。しかし、どうか皆さんは、 容易なことではないからこそ、詩人のようにしっかり言い表して祈りの路を切り拓(ひら)くことが大切なのだと理解する人でありますように。


「どのようなときも」は、前の口語訳聖書では、「常に」でした。そして、この詩には「常に」という表現が3回出てきます(5、7、18節)。 18節は、次のように語っています。「主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。」 ――主なる神さまが私どもを苦難から助け出してくださる愛は、「常に」届くのです。今朝の「招詞」は、「主において常に喜びなさい。 重ねて言います。喜びなさい」(フィリピの信徒への手紙4章4節)と語りかけていましたね。テサロニケの信徒への手紙 一 5:16〜18節は、 次のように教えています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、 神があなたがたに望んでおられることです」。主にある兄弟姉妹、主なる神さまからは、それによって喜びを噛み締めることが出来るような恵みが常に届いているのです。 ですから、その恵みを常に見出す信仰者になりなさいと勧められたりもするのです。私どもは信仰の詩人と共に、「どのようなときも、 わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」という祈りへ導かれるのです。そして、主なる神さまの憐れみを賛美し、 賛美によって感謝を言い表すことが、私どものこれからにとって大切なのです。

金曜日のA新聞で、一青 窈という歌手のことを読みました。一青さんは、小学2年生の時にお父さんと死別し、高校生の時にはお母さんと死別したのです。 そして、「両親が生きている間に『ありがとう、さようなら』の言葉を伝えられなかった後悔が募り、 詩に思いを託すようになった」のだそうです。一青 窈という歌手は、詩も書いています。そして、その動機は亡くなったご両親へ語りかけることだった……。 私どもは今、旧約聖書の詩人の心にふれているのです。「どのようなときも、わたしは主をたたえる」と書き記す詩人の心は、 主ヤーウェを愛しており、主なる神さまへ常に「有難うございます」と言い表す人間らしい想いを持っていたいと願っているのではないでしょうか。 神さまを賛美し、感謝を忘れない人間になりなさいというのは、主イエスさまの教えでもありました(ルカによる福音書17:11以下参照)。

5〜8節は、詩人が御恵みへの感謝を心の板に刻んで憶えようとしているところとして読むことが出来ます。 「わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。/主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。 /この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。/主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。」 ――「どのようなときも、……賛美を歌う」という祈りに生きる人には、主の恵みを数え、それを記憶する取り組みが大切になるのです。


ところで、この信仰の詩人はどのようなときも主を賛美して行くのですが、それは主なる神さまへの篤い愛であることは勿論、隣人への愛でもあったのです。 詩人は、次のように詠(うた)っています。「わたしの魂は主を賛美する。/貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。」 (3)――詩人は、苦難の中にいる「貧しい人」(アナウィーム)を憶え、彼らを慰め、支えたいという人間らしい想いを持っていたのです。 けれども、この詩人は何で、「苦難の中にいる人々」ではなく、「貧しい人」と言ったのでしょうか。 どうやら詩人の言う「貧しい人」は、単に貧困の人たちというのではなく、もっと深い意味があったようです。 「貧しい人」は、前の口語訳聖書では、「苦しむ者」でしたし、月本昭男訳では「虐げられた者たち」です。 7節には、「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった」と語られています。 「貧しい人」は、主ヤーウェを呼び求める信仰の人なのです。


そして、20〜21節には、次のように書かれています。「主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し /骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。」――「主に従う人には災いが重なる」……。何故でしょうか。 主イエスさまのことを想い起こしましょう。父なる神さまと人々を真実に愛したキリスト・イエスさまの歩みには、災いが重なりましたね。 罪が渦巻くこの世界で、人間らしく生きたいと願う人には災いや苦難が重なるのです。その祈りの路には、経済的に「貧しい人」になることもあるのです。 でも、それは尊いことなのです。「主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し/……守ってくださる」からです。 主に従う人には災いが重なりますが、そこには人間らしい喜びとの出会いが待っているのです。「味わい、見よ、主の恵み深さを。 /いかに幸いなことか、御(み)もとに身を寄せる人は。」(9)信仰の詩人は、そういうことを信頼し、苦難の中にいる「貧しい人」のため、 祈り、仕えたいと願ったのです。どのようなときも主を賛美して行くという詩編34編の祈りは、私どもに隣人愛を語りかけて輝いています。


この詩を使徒ペトロは、愛唱していたのではないかと想います。12節以下の詩文をペトロ先生はご自身の手紙に引用しているのです (ペトロの手紙 一 3:8以下参照)。主に従う人の苦難を支えたいと願った詩人の祈りは、使徒ペトロの苦難をも支えたのでしょう。

ウイリアム・バークレー著『明日に向かって 下』には、次のようなことが書かれていました。「アメリカのワシントン市には、 エイブラハム・リンカーンがかつて使用していた聖書が保存されています。リンカーンはアメリカの南北戦争の期間中ずっとそれを愛用しました。 その聖書を開いて見れば、あるページの余白のところに汚れたしみがあるのに気づくでしょう。 それは、何回も何回も指でそこを押さえたことによってできたしみであるのは明らかです。 その箇所に指をおいてみると、 それが詩編34編5節の『わたしは主に求め/主は答えてくださった。/脅かすものから常に救い出してくださった。』というみ言葉を指しているのを発見するでしょう。 これは非常に困難に出会った時にエイブラハム・リンカーンを助けた聖句であり、彼は繰り返しそこを開いて読んだのです。」

主にある兄弟姉妹、どのようなときも主を賛美し、感謝を言い表して行くという信仰の詩人の祈りとその隣人愛に、 私どもも強く結びつく祈りの路づくりをさせていただこうではありませんか。お祈りしましょう。