渋沢教会
更新日:2009.12.26

12月20日 ペトロの手紙一による説教『神のもとに導く道』

古畑 和彦牧師
詩編 第139編 1〜18節
ペトロの手紙一 第 3章17〜22節

序 クリスマスと旅


クリスマス物語には多くの旅が登場してきます。マリアとヨセフは、人口登録のために「ガリラヤの町ナザレから、 ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ」の旅をしました。その旅の途中で主イエスは誕生することになりました。 この幼子イエスに会うために「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに」旅をします。クリスマス物語の最後では、 ヘロデ大王が幼子イエスの命を狙っていることを知ったマリアとヨセフがエジプトへ逃避行の旅をしたことが記されています。 これらの旅は、私たちにとって意味のある重要な旅です。


しかし、これ以上に私たちにとって大切なことは、神の子が人間のもとに来てくださったという旅です。 ヨハネによる福音書1章11節、12節には、「言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」と記されています。 イエス・キリストは私たちのためにクリスマスの夜、旅をして私たちのもとに来てくださったのです。 キリストが旅をしてきてくださったことによって何が行ったのでしょうか。「信じる人々には神の子となる資格」が与えられ、 その資格の故に天国への道が開かれたのです。主イエスは、十字架が身近にせまったときに、弟子たちに「わたしがどこへ行くのか、 その道をあなたがたは知っている。」と語られました。天国への道を知っているはずだというのです。

弟子のひとりトマスが主イエスに「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。 どうして、その道を知ることができるでしょうか」と問いますと、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。主イエス・キリストこそが天国への道であるというのです。 クリスマスとは、このように神のもとに導く道が開かれた日なのです。

本日の3章19節に「キリストは……行って」、口語訳では「下って行き」という言葉があります。22節には、 「キリストは、天に上って」という言葉が出てきます。原文では、同じ言葉です。この言葉を新約聖書ギリシア語辞典で調べますと、 最初に出てくるのが@「旅をする」という意味です。次いで、A「〜から〜へ行く」という意味が出てきます。B「人生の旅路を行く」、 C「逝く」(死ぬという意味の「いく」)が出てきます。ペトロは、今日の個所で、キリストが旅をしたことで道ができたことを語るのです。 そのキリストが歩まれたことでできた道に私たちを招くのです。本日は、キリストがどんな道を作ってくださったのか、それを考えたいと思います。 さて、ペトロは、これまでの2章〜3章をまとめて17節の結論に至りました。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、 悪を行って苦しむよりはよい」。キリストの道を歩む時、多くの場合、善を行っているにも関わらず、苦しみを経験することがあります。 しかし、ペトロは、「それでよいではないか」というのです。なぜ、そんなことが言えるのでしょうか。痩せ我慢をすることでしょうか。 自分は悪口を言われたけれども、祝福をもって応えることができた、という自己満足が自分を支えるのでしょうか。痩せ我慢でも自己満足でもありません。 まして、私たちの信仰がしっかりしているからでもありません。それでは何が「善を行って苦しむ方が、 悪を行って苦しむよりはよい」と言い切るものを与えてくれるのでしょうか。18節前半をご覧ください。 「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました」。「キリストも」と書いてあります。「私たちはひとりではない」という意味の言葉です。 私たちと、キリストとが同じところにいるということを意味します。第2章21節には「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、 その足跡に続くようにと、模範を残された」とありました。キリストの道は、キリストがすでに歩まれた道なので、どんなに道中に苦しみがあっても、 確かな希望に繋がる道なのです。ですから、私たちは「その足跡に続くようにと」招かれているのです。


1.キリストの道-十字架の道


キリストが私たちのために開いてくださった最初の道は十字架の道です。もう一度18節をご覧ください。 「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。 あなたがたを神のもとへ導くためです」。ここに、十字架について4つの大切なことが記されています。 第1は、キリストは「罪のために」十字架で死なれたということです。この言葉の名詞形は「罪を贖うためののいけにえ」(ヘブ10・6)と訳されます。 キリストは罪のないお方であられたが、人類の「罪を贖うためののいけにえ」として死んでくださったのです。 第2は、キリストの十字架の死は「ただ一度」だけのものであるということです。二度も繰り返す必要はない完全なものであるということです。 第3は、キリストの十字架の死は「身代わり」(新改訳)の死であるということです。キリストの死は「正しい方が、正しくない者たちのため」 に身代わりとなったものだったのです。第4に、キリストの十字架の死は、私たちを「神のもとへ導くため」のものでした。 「導く」という言葉は、祭司が人々やいけにえを神の前に近づかせるという儀式用語です。バークレーという聖書学者によりますと、 この言葉の名詞形は、王の前に取り次ぐ者、すなわち接見役の職に用いられたといいます。たとえば、たいへん権威のある人がいるといたします、 その人の所に、私たちはすぐには近づくことはできません。その方に会うためには、その身近な人に取り次いでもらうのです。取り次いでくれる者は、 すべての人を取り次ぐことはしないので、選別をします。キリストも、私たちを神に取り次いでくださるのです。しかし、どんな選別をなさるのでしょうか。 神にはふさわしくない者は、捨てられたのでしょうか。そうではありません。私たちは、神の前に出るのにふさわしいものではありません。 しかし、キリストが、「父よ、この人は、あなたが会ってくださるに値する者です」と言って、連れて行ってくださるのです。 キリストの十字架によってそのようにして神のもとに導く道が開かれたのです。


18節最後の言葉「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」に注目してください。この言葉は、何を意味するのでしょうか。 私たちはうっかり間違えると、キリストは、肉体においては死なれたが、「霊」だけは殺されないですんだ、というような意味に取るかもしれません。 イエス・キリストの肉体は、痛い思いがしたかもしれないけれども、「霊」の方は悠々(ゆうゆう)たるもので、地の世界にも天上の世界にも、 どこの世界にでも、自由に行くことができたという意味ではないのです。聖書においては、神に逆らうものはみな「肉」と呼ばれます。 ですから、私たちのどんなに高級な思いも、使徒パウロの言葉で言えば「肉の思い」になるのです。そのように神に逆らう人間たちがキリストを十字架で殺しました。 そして「霊では生きる者とされた」とは、すなわち、「神が生かした」という意味です。私たちは、神に逆らってキリストを殺したのですが、 それを神が生かしてくださったのです。そして、その神の命に生きるキリストが、自分を十字架につけた人類のために神のもとに導く道を開いてくださったのです。


2.キリストの道-陰府への道


19、20節前半をご覧ください。「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」。 ここには何が書かれているか、昔から大論争がされています。その1つ1つを学ぶことはできませんので2つのことだけに注目したと思います。 それは、「捕らわれていた霊たちのところ」とはどこのことで、キリストはいつそこに行かれたかということです。 この文章の前後をみますと、ペトロは、18節でキリストの十字架の死につい記します。21節にはキリストの復活が、 22節にはキリストが天に帰られた昇天ができています。このことを私たちが週ごとに信仰告白として告白しています『使徒信条』の「十字架につけられ、 死んで葬られ、よみにくださり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました」にあてはめますと、 19、20節の個所は「よみにくだり」の部分に当たることが分かります。


キリストは、死んでから甦るまでの間、陰府(よみ)にいかれて「神……に従わなかった者」たちに宣教をしていたのです。 「陰府」とはどのようなところでしょうか。 旧約聖書を見ますと、陰府とは、死者の魂がいくところと考えられています。 神を信じていても、いなくても死者の魂は、ここに集められました。そして、世の終わりの時に、天国へ行くものと地獄へ行くものに分けられると考えられています。 旧約においては、「陰府」は、死の世界、闇の世界、絶望の世界でした。ところが、新約になると少し事情が変わって来ます。 新約においても、死者の魂は陰府に行きます。しかし、陰府自身が変わってしまったのです。 主イエスは、十字架上で救いを求めた強盗に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)とおっしゃいました。 陰府が、楽園になったのです。なぜかといえば、キリストが行かれたからです。キリストが行かれた時に、陰府は陰府でなくなったのです。 キリストの道は、死によって閉ざされてしまうような道ではありません。死の先にも希望をもたらす道なのです。


3.キリストの道-復活の道


「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、 今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです」(20節後半、21節前半)。ノアの洪水というのは、人々を滅ばすほどの水でした。 八人の者だけが生き残りました。「八人」とは、ノアとその妻、および3人の子セム、ハム、ヤフェトとその妻たち(創7・7)です。

その水は滅びの水でした。しかし、その水は、「神……に従わなかった者」にとっては破滅でしたが、神に服従したノアたちには、 箱舟を浮かせ安全地へ運んだという意味で救いでした。また、彼らは神の言葉に服従し、破滅から救われたという点でキリスト者を象徴していました。 このようなことから、ノアの洪水の「水」についての言及から、話題は洗礼の水に移ります。洗礼は、どん底まで下って救ってくださる主イエスの死において、 信仰者も古い自分と罪に対して死んだ事実をあらわしています。それだけでなく、 罪に死んだ者が「今やイエス・キリストの復活によって」新しく生かされるという「救い」に預かることができるのです。


「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」(21節後半)。 この当時の洗礼式は、私たちがこの教会でしておりますような、頭の上に水をつけるというようなものではなくて、実際に水に潜ったのです。 水の中に全身を入れたのです。そのようにして、全身を水で洗うというのを見て、多くの人々は、からだの汚れを清めていると思ったのでしょう。 ですから、「肉の汚れを取り除くことではなく」という言葉が出てきます。洗礼を受けると何が起こるのでしょうか。 身体が清められるということではなくて、「神に正しい良心を願い求める」ことができるようになることです。 この「正しい」と訳しております言葉は、10節の「幸せな」という言葉と同じです。そして以前説明したように、 「正しい」とは、原語はむしろ「善い」というのが根本的な意味です。「善い良心」というのは妙な表現です。良心というのはそれ自体よい心です。 そのよい心が善くなるというのは、どういうことでしょうか。本当は、よい心なのに善くなくなっていたからです。むしろ、罪にまみれてしまっていたのです。 その私たちが、その罪の汚れから解き放たれて、それこそ本当に善い、幸いな心で生きることができるようになる、それが洗礼を受ける者の姿だというのです。 主イエスは、復活によってそのような道を開いてくださったというのです。


4.キリストの道-天国への道


「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」(22節)。 キリストの道は、陰府に通じるようになっただけでなく、天にも通じるようになったのです。上にも下にも道が通じるようになったのです。 キリストは、死者の世界に行き、そこから、さらに天に向かわれたのです。キリストの復活により、陰府の国を突き抜けて天に至る道が開かれたのです。


そのキリストは「天に上って神の右におられます」。「右」とは神の権威の場を指します。「天使、また権威や勢力」とは、この手紙が書かれた当時、 人間を圧迫し支配する力と考えられていたものです。人間は、そうした力に束縛されて身動きできないのだと考えられていました。 さまざまな経済機構や社会組織によって縛られていると現代人が痛感しているのと同じです。ところが、それらもろもろの権威や勢力をキリストは打ち破り、 また従えて、父なる神の右の座に高く上げられているのです。今まで自分たちを圧迫し、支配していると思われていたいっさいのものが、 キリストによって打ち破られたのです。キリストは、そのような道を歩まれ、私たちを招かれています。


結論


さて、本日は、私たちのためにキリストが神のもとへと続く道を開かれたことを見てきました。私たちは、陰府を歩んでいるように覚える苦難の中にあっても、 キリストが陰府を楽園に変えたことに心にとめましょう。そして、そのキリストは、その陰府から天国へと続く道を開かれました。 キリストは、十字架、復活、昇天をとおして、私たちを神のもとに導く道へ招いてくださっているのです。 ですから、私たちは苦難の中にあっても希望を失わないのです。クリスマスは、キリストが私たちのために天国への道づくりを始めてくださった記念日です。 ですから、私たちは、この日を祝い喜ぶのです。


祈祷


主イエス・キリストの父なる神。私たちにクリスマスの恵みを与えてくださってありがとうございます。 私たちは、すぐに人生の暗闇に道を迷い、陰府のような現実に絶望してしまうものです。しかし、キリストは私たちのために、 十字架にかかり、陰府に下り、復活して、天国への道を作ってくださいました。それだけでなく、その道を共に歩んでくださると約束してくださっています。 このクリスマスの時、その約束を信じて、キリストの道をキリスト共に歩む者とさせてください。主のみ名によって、祈り願います。アーメン。