渋沢教会
更新日:2009.12.26

12月24日 クリスマス燭火讃美礼拝『別の道を通って』

古畑 和彦牧師
ヨハネによる福音書14章 6節

序 クリスマスに出会った人々


世界で最初のクリスマスに立ち会ったのは、マリアとヨセフを除くと、ベツレヘムの野原で羊を飼っていた羊飼いたちと、 少し遅れて東の国からやって来た占星術の学者たちだけでした。羊飼いは、ユダヤ人でしたが、人々から嫌われ、 激しい労働にもかかわらず貧しさにあえいでいました。今日のワーキングプアを代表するような人々です。 かたや、東の国から来た占星術の学者たちは、知識階級に属し、何か月もの旅ができるほど豊かな人々でした。 まったく対照的な両者のただ1つ共通することは、イエス・キリストに出会ったことです。イエス・キリストに出会うことで何が起こったのでしょうか。 羊飼いたちは、神を呪い、自分の人生を呪うような生き方から「神をあがめ、賛美しながら」(ルカ2・20)大きな喜びに包まれて帰って行きました。


占星術の学者たちには何が起こったのでしょうか。聖書は具体的なことは何も記していません。ただ、この学者たちのことを記した最後の個所は、 彼らが「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(マタイ2・12)」となっています。意味深い言葉ではないでしょうか。 なぜなら、これまで実に多くの人々がイエスに出会ったことで別の道を歩み始めているからです。私自身も、コンピュータの仕事に明け暮れていた日々から、 イエスに出会ったことでまったく別の道を歩くことになり牧師になりました。単に職業が変わっただけでなく、本質的な生き方が変わりました。 ですから、学者たちがまったく新しい生き方をイエスに会うことで始めたと考えることは無理のないことかと思います。

今回は、この学者たちの変化に目を留めながら、私たちもこのクリスマスの時に、新しい別の道を歩み出したいと思います。


1. エルサレムへの道


まず、占星術の学者たちの「別の道」を歩み出す前の道を見てみましょう。占星術の学者とは、もともとの言葉では「マゴス」といいます。 このマゴスというのは、バビロンやペルシャにおいて古くから勢力のあった聖職者の階層で、きわめて高度な学問をおさめて、 医学、宗教、占星術、天文学、占いの専門家でした。時々の政治にも大きな影響力を与える人々でした。「天の声」で政治を動かす陰の高級官僚というところでしょうか。 しかも、特権階級として、多くの富を得ることができる人々です。その人々がイエスに会うためにやってきたのでした。 そのきっかけは特別な星の出現です。占星術の学者たちが、いつものように星占いのために、星を調べていますと、不思議な星を発見しました。 彼らは、それが何を意味しているかを調べたに違いありません。こんな星が現れますと、こんなことが起こるという一覧表のようなものがありました。 それによりますと、どうもユダヤに新しい王が誕生しようだと分かったのです。しかも、この新しい王は世界を変える王であることが分かりました。 彼らは、この新しい王に会いたいとの思いからユダヤへのやってきたのでした。彼らはユダヤ人の王に何を求めたのでしょうか。 どうも最初は、必ずしも信仰的なことだけでなかったように思えます。今のうちに世界を変える王に近づくことは自分のキャリアに得だと考えたかもしれません。 それは彼らの旅の目的地に現れています。彼らは、ユダヤの新しい王だから王宮にいるに違ないと考えてユダヤの首都エルサレムへとやってきました。 しかし、そこにはユダヤの新しい王であるイエス・キリストはいませんでした。彼らは道を間違えてしまったのです。


彼らを迎えたのは、当時ユダヤの国を治めていたヘロデ王でした。王といっても、当時のユダヤの国はローマ帝国の支配下にありましたから、 地方行政官といったところでした。このヘロデ王は、学者たちを表面的には大歓迎で迎えてくれます。そして、学者たちの間違いを指摘し正しい道を教えてくれます。 しかし、ヘロデの本心は新しい王の抹殺でした。自分の地位と名誉と富を守るために新しい王は邪魔だったのです。


今年、日本はどうしてこんなことになってしまったのかと思えるほど最悪の状態になりました。家庭は崩壊し、子どもたちは貧しさに苦しみ、 若者たちに就職先はなく、いや大人すらリストラと派遣切りに苦しみ、その結果、自殺者が3万人を超える事態がもう10年も続いています。 したくても結婚ができない、産みたくても子どもが産めない、働きたくても働き先がない。最悪の状態です。 そのなかで多くの人々は王宮を求めてエルサレムへの道を歩みます。そこは、地位や名誉や豊かさを与えてくれるかのうに思える場所です。 しかし、そこにはヘロデがいることを忘れてはなりません。

この道について聖書は「その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない」(ローマ3・16、17)と書いてあります。 ここには、この道がどんなに危険かが描かれています。イエスもまた、こう言われます。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、 その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」 (マタイ7・13、14)。ここには、2つの道が出てきます。一つは、多くの人々がとおる広い道。 しかし、到着点は滅びです。 もう一つは、見出す人の少ない狭い道。しかし、到着点は命-すなわち天国、父の家です。 私たちの歩んでいる道に待っているのはなんでしょうか。命でしょうか、滅びでしょうか。


2.ベツレヘムの道


次に、占星術の学者たちのイエスに出会った道を見てみましょう。彼らは道を間違えましたが、幸いなことにユダヤの新しい王イエスは、 エルサレムからわずか8kmのベツレヘムにいることが分かりました。歩いても2時間の距離です。しかし、王宮であれば簡単に探すことができますが、 小さな村とはいえベツレヘムのどこにいるか分からない幼子を探すとなると大変です。しかし、彼らは諦めませんでした。新しい王は王宮にいなかったのですから、 彼らが望んでいたキャリアアップの望みはかなえられません。それでも彼らはイエスに会う旅に出るのです。彼らに何らかの変化が起こってきたと考えられます。


どうやって家を探せばいいのかと思う彼らに「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上で止まった」のでした。 たぶん、夜になって、もう家を探すのは難しいと思えたときに星が現れて導いてくれたのです。 私の人生にも私をイエスのもとに導いてくれた星々があったことを思い出します。特別伝道集会に誘ってくれたコンピュータの学校の友人、 教会の庭でうろうろしていた私を導いてくれた兄弟、教会でいつも声をかけてくれた先に天国に行った兄弟、 それらの星たちの導きなしにはイエスとの出会いはなかったと思います。ある人が「星は夜光る」と申しました。 人生に闇が覆う時、そこに私を導く星があることに気がつくのです。自分の人生は自分で歩くことができると思いこんでいた昼には気がつかなかった星が、 暗闇の中に見えてくるのです。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と聖書は記します。


原文は「大きな喜びをひどく喜んだ」です。学者たちはまだイエスに会っていません。当然何らかのご利益(りやく)をいただいたわけでもありません。 それなのに「大きな喜びをひどく喜んだ」のです。真剣にイエスを求める人生、そこに真実な喜びがあるのです。 私を導くために私の周りで輝く星々ゆえに喜びがあるのです。いうまでもありませんが彼らを輝かせているのはイエス・キリストです。

占星術の学者たちは、ついに救い主イエスに出会います。彼らが出会った幼子は、中世の聖画にみられるように後光があったわけではありません。 何かすばらしい教えをしたわけでもありません。十字架の姿を見たわけでもありません。もちろん、王冠も王座もありませんでした。 彼の目の前にいるのは、どこにでもいるような赤ちゃんでした。しかし、彼らは、話が違うじゃないかとは思いませんでした。 彼らは、この御方こそ救い主であると信じたのです。それは、この幼子に礼拝をしたことと、 「黄金、乳(にゅう)香(こう)、没(もつ)薬(やく)」などの宝を献げたことに現れています。


今年、何の喜びもなかったという方がおられたら、目を天に向けてみましょう。暗闇の中で、あなたを導く星が輝いているはずです。 その導きを信じてイエス・キリストのもとに出かけましょう。そこに「大きな喜びをひどく喜んだ」という喜びがあるのです。


3.神への道


最後に学者たちが歩み始めた「別の道」について考えましょう。イエス・キリストはこの道のことを次のように語られました。 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14・6)。 イエスは、自分こそが、「父のもと」すなわち天国に至る道であるというのです。私たちの周りには、 「これこそ人間を幸せにする道だ」という宗教や教えがたくさんあります。「わけ登る、ふもとの道は、 異なれど、同じ高嶺の、月を見るかな」などと言って、どんな宗教でも、結局は同じことを教えていると思っている人が大勢います。 しかし、イエスは、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われました。 イエス・キリストという道だけが天国に通じる狭い道なのです。そのほかの道は、いかにも広く立派であっても、どんなにたくさんな人が通っていても、 それは天国に通じない滅びの道なのです。私たちは、どの道を通るでしょうか。


さて、ここで「イエスが道である」ということをもう少し突っ込んで考えてみましょう。私は現在、H市に住んでいます。 私の住まいまでの道を紹介すると次のようになります。小田急線のS駅の改札を出て、北口の左側の階段をおりて、正面を見て左の道を真っ直ぐ行き、 はじめの信号の十字路を右に行き、西中学校を左手にみて、国道246号線を渡ります。西小学校を過ぎますと、 すぐに左に入り、その道のつきあたりを右に道なりに行きます。さらにその道のつきあたりを右に行き、○番目の路地を入り、○件目が私の住まいです。 このように説明されても、はじめての人が迷わずに私の住まいまで来ることは難しいと思います。しかし、私が、駅まで迎えに参りまして、 その方を家まで案内しますとはじめての道であっても迷子になることはありません。これこそが、イエスが私たちのためにして下さったことです。 イエスは、単に、私たちに人生についての助言や指示や忠告を与えるのではありません。イエスは、私たちと共に歩き、手を引いて、私たちを導いてくださるのです。 ですから、私たちは、どんな人生の暗やみの中でも大丈夫なのです。旧約聖書の中で詩人は、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない、 あなたがたわたしと共にいてくださる」(詩編23・4)と歌いました。たとえ、太陽が隠れ、死を予感させるような道であっても、 共にいて下さるお方を信じてついていけば大丈夫なのです。こんなに確かな道があるでしょうか。

しかし、私たちは、なぜ、イエスにそこまでしていただきませんと、天国への道を見いだせなくなってしまったのでしょうか。 人間は、初めから天国への道が分からなかったわけではありません。神は、人間を天国への道を歩むようにと造られました。 しかし、人間は、その道を勝手に踏み外して迷子になってしまったのです。神を忘れ、自己中心の生き方-聖書では、これを罪といいます、 この罪を犯したために天国への道が分からなくなってしまったのです。多くの宗教が、こんな人間に、こう歩けばいいよ、という地図を与えてくれます。 しかし、どんなに立派な地図を持っていても、人間の根本原因である罪が解決しない限り、結局道を自分勝手に歩き、また迷子になってしまうのです。 こんな私たちのためにイエス・キリストが来られたのです。イエス・キリストは、十字架にかかることによって、私たちの罪を清算して下さいました。 そのうえ、彼が私たちの人生を共に歩んで下さり、天国へと導いてくださるのです。


結論 これが行くべき道だ


聖書の中に、「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け』と」 (イザヤ30・21)という言葉があります。この混乱した世を歩くにあたって、私たちがどんなにか確かな道を必要としているか、 わかっていただけるでしょうか。確かな道がないとしたら、だれもがさまよってしまいます。それどころか、もっと悪いことに、 私たちは永遠に失われてしまいます。イエス・キリストは、彼ご自身が道であると言っておられます。すなわち、彼はただ一つの救いの道であり、 天国への唯一の道なのです。私たちは、このお方を信じて、このお方についていけば大丈夫なのです。どうでしょうか。 私たちも、人生の「死の陰の谷を行くときも」恐れずに大胆に、それぞれの人生の道を天国目指して歩んでいこうではありませんか。 このクリスマスの夜、この「別の道」を歩み出そうではありませんか。


祈祷


天におられる私たちの父なる神。御名を賛美します。今宵、あなたの御子イエス・キリストの誕生を祝う燭火賛美礼拝に集うことができました。 心から感謝いたします。あの夜、イエスは、私たちに天国への道を開くために来てくださいました。それなのに私たちは全く別の道を歩み出し迷子になっていました。 どうか、今宵、本来の道、天国への道に戻ることができるように導いてください。そして、どんな暗闇の中にあっても、「大きな喜びをひどく喜ぶ」者とさせてください。 特に、この年、大きな悲しみ、苦しみを経験した方に神の慰めがありますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。