渋沢教会
更新日:2010.1.1

1月1日 2010年元旦礼拝 <「善い業」への参与>

浜崎 孝牧師
創世記 1章31節ab
フィリピの信徒への手紙 1章6節

 

聖書は、創世記から始まりますね。創世記は、原語のヘブライ語ではベレーシースと言います。それは、「初めに」という意味です。 創世記は、「初めに、神は天地を創造された」(1:1)と語りだします。その最初の言葉が書名になってヘブライ語の聖書ではベレーシースなのです。 きょうは2010年の最初の日ですから、これもベレーシース……ですね。


聖書は私どもに、「初めに、神は天地を創造された」と語りかけ、一切の初めに神さまの働きを認め、そこから全てのことを思いめぐらして行くように促しているのです。 そして、初代教会の使徒パウロは、そういうことをしていました。これは、マケドニアの町フィリピにおける教会形成の出来事を語ったものですが、 パウロ先生は「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、 わたしは確信しています」(フィリピ1:6)と言っています。フィリピの教会は、使徒パウロの開拓伝道によって形成された、 ヨーロッパ最初のキリスト教会でした。こういう出来事は普通、フィリピの教会の創始者は使徒パウロだ……と言いますね。 けれども、パウロ先生は、フィリピの教会は私が作りました……というようなことは言わないのです。パウロ先生はベレーシース、 一切の初めに神さまの愛の働きかけがあったことを信じていたのです。パウロ先生は、慈しみ深い神さまがフィリピの人々を見守り、愛し、 その救いのために使徒パウロを派遣したというのです。そういう人間らしい現実把握から始め、 神さまの愛への応答として一所懸命フィリピで福音宣教と教会形成につとめて来たのがパウロ先生だったのです。 そして、そういう祈りの路づくりが祝福されて教会が形(かたち)づくられたのでした。


旧約聖書の創世記も、新約聖書のフィリピの信徒への手紙も、一切は――世界も教会も私ども一人一人の人生も―― 先ず神さまの愛の働きかけがあって始まったと語りかけているのです。ですから、私どもは、 今日という日もまた神さまがそのご慈愛で始めてくださったものだという信頼に立つことが大切なのです。


私どもは、自分で心臓を動かし、生きてきたでしょうか。誰も、「そうです」などと答えられる人はいません。 私どもの心臓の鼓動は天地万物の造り主である神さまから与えられたのです。ほんとうに何も無いところからこの世界を創造し、 そこに私どもを存在させることの出来た偉大な神さまがいらっしゃったからこそ私どもの人生はあるのです。渋沢教会も同じです。 私どもの出会いは不思議に満ちています。これは、誰かが仕掛けたことであって神さまなんかじゃない……と、そんなことを言える人はいないのです。 教会と私ども一人一人のルーツは、キリストの十字架と復活の出来事によって私どもに出会って来てくださった愛の神さまなのです。 どうぞこの2010年のベレーシース、一切の初めに慈しみ深い神さまの愛の働きがあったことを心から受け容れましょう。


そこで、どうしても知っていただきたいことがあります。使徒パウロは、神さまが「善い業を始められた」と言っていましたね。 創世記の著者もまた、そういう信仰に立っているということです。神さまの天地創造の業を語る創世記第1章には、 「良しとされた」という表現が6回も語られているのです(4、10、12、18、21、25)。そして、創世記第1章の結語31節abには、 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とあります。人々がそれをどう感じていようと、 神さまの業によって造られたものは神さまご自身が、「極めて良かった」と満足していらっしゃるものなのです。創世記を書いた信仰者は、 この世界は神さまが満足しておられるもので満ちているという信頼に立っていたのです。


皆さん、聖書学者は、創世記第1章が書かれたのはバビロン捕囚と呼ばれる時代だったと指摘しています。 紀元前587年、新バビロニア帝国によってエルサレムは陥落し、イスラエル(正確には、南王国ユダ)は滅亡しました。 そして、神の民が大勢征服者の国へ連行されて行ったのでした。それがバビロン捕囚の始まりです。そして、そのバビロン捕囚の悲惨な様子は、 詩編第137編に語られています。つまり、神の民にとって世界は、「極めて良かった」などとは言えない時代、それどころかつくづく思わしくない時代に、 創世記の著者は敢えて神さまを愛し、信頼することを書いたのです。そして、そういう信仰に力があり、踏みつけられても死なず、 しなやかに立ち上がる雑草のように神の民を生かし、支えたのでした。


使徒パウロは、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、 わたしは確信しています」と語ったのですが、その時パウロ先生が抱えていた状況は決して善い業の進展と完成とを確信出来るようなものではなかったのです。 パウロ先生は、「確信」を語った後、「監禁されている」ということを繰り返し語っています(7、13)。フィリピの信徒への手紙は、 そのとき牢獄に監禁されていた使徒パウロから書き送られたものなのです。皆さん、その信仰生活が理由で、言わば冤罪で監禁された苦難は、 人に「善い業」の進展を期待させるものなのでしょうか……。決して、そうではないですね。そういう試練の中では、私どもの心の湖は大荒れになり、 大いに心挫かれるのではないでしょうか。バビロン捕囚を体験した神の民も、そんな具合だったのです。そして、パウロ先生も必死だったのです。 必死に生きて、苦難を乗り越える信仰に立ってあのような手紙を書いたのです。創世記=ベレーシースとフィリピの信徒への手紙の第1章には、 しなやかな信仰が生きているという点で共通しているのです。


きょうは2010年のベレーシース、私どもも聖書の中のベレーシースに見出された神信頼に立とうではありませんか。 世界と教会、そして私どもが向き合っている状況は、順調とは程遠いものですが、私どもはパウロ先生たちのような信仰に立ち返って、 善い業の進展とその完成を確信して行こうではありませんか。そういう祈りを分かち合って行く歩みにこそ、キリスト・イエスさまが伴い、 勝利の喜びを祝福してくださるのです。お祈りしましょう。