渋沢教会
更新日:2010.1.6

1月3日 詩編による御言葉の説教「なお待ち望む者」

浜崎 孝牧師
詩編38編1〜23節
マルコによる福音書7章24〜30節

詩編第38編は、<なお、主を待ち望む者>の祈りです。信仰の詩人は、「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。」 (16節a)という祈りを記していますね。私どもは、「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます」という祈りに生きている者でしょうか……。 その想いめぐらしには、「なお」という語を心に留める必要があります。前の口語訳聖書では、「しかし」でした(NRSV新改訂標準訳もbut)。 詩人の祈りの路は、今とても厳しい試練の中にあり、その路は全く閉ざされているという具合なのです。ですから、「なお」あるいは「しかし」と言うのです。


詩人の祈りの路は、何によって閉ざされたのでしょうか。それは、主なる神さまの詩人に対する激しい怒りと憤りです。 信仰の詩人は、「主よ、怒ってわたしを責めないでください。/憤って懲らしめないでください。」(2)と哀願しています。 詩人の祈りの路の閉鎖は、最も深刻なものだったのです。詩人は、「あなたの矢はわたしを射抜き/御手はわたしを押さえつけています。」 (3)と言っています。どうしてそんな深刻な状況に陥ったのか……、詩人は彼自身の内にその原因があったことを認めています。 「わたしの肉にはまともなところもありません あなたが激しく憤られたからです。/骨にも安らぎがありません わたしが過ちを犯したからです。 /わたしの罪悪は頭を越えるほどになり/耐え難い重荷となっています。」(4〜5)


詩人は、19節のところでも、「わたしは自分の罪悪を言い表そうとして/犯した過ちのゆえに苦悩しています。」と言っています。 どのような内容かはわかりませんが、詩人は自分の頭を越えるほどになった「罪悪」を見つめたのです。詩人は、 「疫病にかかったわたし」(12)と言っていますね。彼は、大変な病気を負ったのです。その疫病が何であったかは特定できませんが、 次のような病状と思われるものが語られています。「負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます わたしが愚かな行いをしたからです。 わたしは身を屈め、深くうなだれ/一日中、嘆きつつ歩きます。腰はただれに覆われています。わたしの肉にはまともなところもありません。 /もう立てないほど打ち砕かれ/心は呻き、うなり声をあげるだけです。」(6〜9)11節も、病状の一端を語ったものかもしれません。 「心は動転し、力はわたしを見捨て/目の光もまた、去りました。」――信仰の詩人は、このような大変な病気に罹(かか)り、 これは自分が重ねてしまった大きな罪悪に対する主ヤーウェの激しい怒りによるものだ……と読み取ったのです。祈りの路づくりは、 主なる神さまとの絆を生き生きと保つことです。ですから、「主よ、わたしを見捨てないでください。/わたしの神よ、遠く離れないでください。」 (22)と叫ばなければならない詩人の祈りの路は、深刻に閉ざされていたのでした。そして、そこから、詩人が「主よ、わたしはなお、 あなたを待ち望みます」と言い表した信仰の尊さがわかります。


詩人は、「わたしは……口に抗議する力もない者となりました。」(15)と言っていましたね。 詩人のように酷い病気を負うと、信仰者もまた神さまに抗議する者になるのです。それが人間らしい抗議であれば良いのですが、 やがて、神などいない……と、信仰生活を捨ててしまう人も出てくるのです。そういう悲惨な現実があることを想い起こすなら、 詩人の「なお」は私どもの心を揺り動かすものです。そして、私どもの信仰も、そういうものにレベルアップしたい……と励まされます。


キリスト者詩人、八木重吉の詩に、「わが児」と題するものがあります。 「いったんのいきどおりにわが児をなぐっても/泣きもせずにすがってくるわが児を またなぐっても/泣きもせずまたすがってくる おお」。 それから「桃子」と題した詩は、こうです。 「いらいらして/桃子に拳骨(げんこつ)をくれて/父っちゃんこわいかと聞いたら/こわいと言う/いい父っちゃんかと聞くと/ いい父っちゃんと言う/だらしの無い/そのくせとても敵わない考えだ」――たしかに人間の親子関係にはそういうものがありますね。 私も、桃子ちゃんのことが良く理解できる体験をしました。「主の祈り」をお教えくださったキリスト・イエスさまは、 祈る時には「天におられる私たちの父よ」と呼びかけなさいと言われました。私どもの信仰は、主なる神さまと親子関係の絆を持って生きることなのです。 ですから、主なる神さまから責められ、信仰を捨てるというのは、まだ親子関係の信仰にはなっていないということです。 まして、詩人の場合は、頭を越えるほどになった罪悪が想い起こされたのです。天の父なる神さまから矢を放たれたり、押さえつけられたとしても仕方がないのです。 それは虐待とは違うのですから、詩人のように「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。/わたしの主よ、 わたしの神よ/御自身でわたしに答えてください。」(16)と縋(すが)ることが人間らしいことなのです。 そして、それが天の父なる神さまのお心を動かすことだと真剣に考えて良いのです。詩人が言った、「御自身でわたしに答えてください。」は、 前の口語訳では、「あなたこそわたしに答えられるのです。」でした。偶像の神さまなら、何も答えてはくださらないでしょう。 けれども、主なる神さまは、そのお心を動かされる憐れみ深い方であり、必ず慈愛をもって答えてくださるのです。


「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。」を月本昭男訳は、「じつに、ヤハウェよ、私はあなたを待ち望みました。」と過去形にしていました。 これら二つの翻訳で詩人の祈りを受け取ると、主なる神さまのお怒りを受けた詩人は、それでもヤーウェにお縋りしたのです。 そして、今またお縋りしているのです。さらに、彼はこれからもそうするのです。だらしのない信仰……。 でも、誰がだらしのない信仰ではない信仰を貫いて来たのでしょうか。憐れみ深い神さまは、彼のような信仰者に心を動かしてくださる方なのではないでしょうか。 聖書は、そういう希望を抱かせてくれるものなのです。


マルコによる福音書は、主イエスさまから心を挫(くじ)かれるような語りかけを受けたにもかかわらず、「主よ、しかし」という信仰にふみとどまった女性を語っていましたね。 そこの、主イエスさまのお言葉を想い起こしましょう。イエスさまは、「それほど言うなら、よろしい」とお答えになり、あの女性に祝福をお告げになったのでした。 イエスさまは、あのシリア・フェニキアの女性の信仰にお心を動かされたのです。私どもは、信仰の完成者であるイエスさまから、 「それほど言うなら、よろしい」と祝福していただけるような信仰を祈り求めるよう促されているのです。


2010年は、世界も教会も私ども一人一人にとっても、厳しい歩みになりそうです。私どもは、また心挫かれる体験をするのではないでしょうか。 そして、心挫かれる時は、信仰が問われる時なのです。罪深い私どもには、主なる神さまから心挫かれる語りかけを受けることもあるのです。 でも、信仰の詩人はあの深刻な挫折の中で、「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。」という信仰を必死に言い表しました。 どうか、私どもが目指す信仰もそういうものでありますように。讃美歌531番は、「なお主こそ、わが望み」と言い表す信仰の歌です。 私どもの決意として、この後(あと)歌いましょう。お祈りします。