渋沢教会
更新日:2010.1.11

1月10日 詩編による御言葉の説教「選びとしての沈黙」

浜崎 孝牧師
詩編39編1〜14節
ルカによる福音書9章28〜36節

詩編第39編の詩人も、病気だったようです。それも、死を予感するような病気でした。彼は、「わたしをさいなむその御手を放してください。 /御手に撃たれてわたしは衰え果てました。」(11)と言っています。この祈りを月本昭男訳で読むと、「あなたからの疾患を私から遠ざけてください。 /み手による打擲(ちょうちゃく)によって私は尽き果てました。」です。ヘブライ語の聖書では、ネガアという語が見出されます。 それは、38編12節で「疫病」と訳された語なのです(もしかするとあのヨブが罹った、「ひどい皮膚病」のようなものだったかもしれません)。 というわけで、この信仰の詩人も重い病気を負い(14節は、死を予感している言葉のようです)、その闘病生活が信仰の闘いの時になったのでした。


どういう闘いになったのでしょうか。詩人は、「舌で過ちを犯さぬように」(2)慎み、信仰の道を守らなければならなかったのです。 詩人のような大試練に遭遇すると、私どもは神さまを恨む言葉を口にしたり、自らの人生を呪うようなことを言い出したりするのではないでしょうか。 詩人は、主ヤーウェに向かって、「あなたに背いたすべての罪からわたしを救い/神を知らぬ者というそしりを 受けないようにしてください」 (9)という祈りを記していますね。私どもも、主なる神さまに背いた罪を想い起こすことが出来る、的外れや弱さを抱えた人間なのです。 ですから、重い病気や挫折などの大試練に遭う時は、舌で過ちを犯さないように……という闘いは切実になるのです。


信仰の詩人は、「神に逆らう者が目の前にいる。」と言っていますね。もし大試練の苦しみから神さまを恨み、非難するようなことを口走れば、 神さまに逆らう者から笑いものにされ、彼らを勢いづかせることになりかねません。あかしにならない……のです。 ですから、「わたしの口にくつわをはめておこう」(2)と決心したのです。くつわといっても詩人は馬ではありませんね。 「わたしは口を閉ざして沈黙し」(3)――詩人は、自己抑制し、沈黙することを選んだのです。選びとしての沈黙です。 沈黙にはかんばしくないものもありますが、信仰の道を守るために尊い意味を持つ、ポジティブな沈黙もあるのです。


私どもの主日礼拝順序は、神さまの招きの言葉に備える「前奏」から表示されていますね。 そして、そこのところは、礼拝出席者は「沈黙」するようになっています。「後奏」のところも「沈黙」が呼びかけられています。 なぜ「沈黙」するように促されているのか考えたことがありますか。ハバクク書の預言は、「主はその聖なる神殿におられる。 /全地よ、御前に沈黙せよ。」(2章20節)と語りかけています。礼拝者が会堂で主なる神さまの臨在を知り、 その聖性にふれ、み言葉を聴きたいと願うなら、沈黙を選び取ることが大切なのです。そして、選び取った沈黙は、他にも様々な意味を持っていきます。


信仰の詩人の沈黙は、固い決意で選び取られたようで、彼は、「あまりに黙していたので苦しみがつのり//心は内に熱し、呻いて火と燃えた。」 (3b〜4a)と言っています。大変なことになりましたが、抑え難く語りだした詩人の言葉には、神さまを恨んだり、 自らの人生を呪うような言葉――あかしにならないようなものは見当たりません。舌で過ちを犯すことから守られています。 それどころか、人間らしい祈りになっています。これは、ある程度、選び取った沈黙の効果だったと想います。「わたしは舌を動かして話し始めた。 『教えてください、主よ、わたしの行く末を/わたしの生涯はどれ程のものか/いかにわたしがはかないものか、悟るように。』/御覧ください、 与えられたこの生涯は 僅か、手の幅ほどのもの。/御前には、この人生も無に等しいのです。/ああ、人は確かに立っているようでも すべて空しいもの。 /ああ、人はただ影のように移ろうもの。/ああ、人は空しくあくせくし/だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。」(4b〜7)


さて、舌で過ちを犯さぬように選び取った沈黙の効果もあって、詩人は抑制の効いた祈りの言葉を語りだし、 その祈りの中で私どもの人生にとって大切な真の希望を見出しました。「主よ、それなら/何に望みをかけたらよいのでしょう。 /わたしはあなたを待ち望みます。」(8)――私どもは、年賀状を読んだばかりです。そういうものにも、「健康第一」と書かれているものがあります。 この私もまた健康に大きな課題を抱えた者ですので、健康の大切さは身に沁みてわかります。 ですから、皆さんと自分自身の健康が祝されるように祈り続けています。しかし、私どもは詩人が抱えた生活、その信仰の闘いを忘れてはなりません。 信仰の詩人は、重い病気で死を予感しているのです。彼には、「健康第一」という言葉は「空しいもの」(6)なのです。 そして、彼のような祈りの人こそが、真の希望とは何かということを深く知るのです。詩人は、「わたしは主なる神さまが希望です。 この差し迫った厳しい状況の中で、待ち望むことが出来るお方はあなたのほかにはいません」と言い表したのでした。


『アルプスの少女ハイジ』のお話しは、皆さんご存知ですね。作者は、ヨハンナ・シュピーリというキリスト者です。 スイスのチューリヒ市の中央墓地にある彼の墓碑には、詩編39:8の聖句が刻まれているそうです。ヨハンナ・シュピーリは、 「72年の生涯を神への祈りに貫いた」人だと言われています。そういう敬虔な祈りの人の心が強く共鳴したのが、 「主よ、それなら/何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。」という祈りだったということでしょうか……。 信仰の詩人は、この真実の希望に、選び取った沈黙から出会いを体験したのです。


詩人は、10節にも選びとしての沈黙を記しました。「わたしは黙し、口を開きません。/あなたが計らってくださるでしょう。」――この沈黙は、 詩人が必死に自己抑制したものとは質的に違います。今度の沈黙は、真の希望との出会いを与えられた後の平和な自己抑制……、 主なる神さまは必ず助けに来てくださるという信頼に立った沈黙です。選びとしての沈黙は、主なる神さまから祝福され、深まるのです。


詩人の選んだ沈黙の深まりは、主なる神さまの沈黙と向き合い、火花を散らすような出来事になりました。 「主よ、わたしの祈りを聞き/助けを求める叫びに耳を傾けてください。/わたしの涙に沈黙していないでください。 /わたしは御もとに身を寄せる者/先祖と同じ宿り人。」(13)――私どもは、選びとしての沈黙を生きた信仰の詩人のお陰で、 尊い発見をさせていただきました。それは、主なる神さまの沈黙もまた、いいえ、それこそが選びとしての沈黙だということです。


信仰の詩人の沈黙は、神さまと隣人を愛する祈りの路から選び取ったものでした。彼は、神さまに逆らう者が勢いづくようなことを口にしてはならないし、 自分がどう語るかによって祈りの仲間が励まされもし、逆に挫かれもする。この際、私は口を閉ざして沈黙しよう……と決心したのでした。 そのように、詩人の選んだ沈黙は愛を動機にしていたわけです。それなら、主なる神さまの沈黙は、なおさらその愛から選ばれたものなのではないでしょうか。 幾らお祈りをしても、神さまは沈黙しておられる……。そういう時、私どもはどうしても疑いや不安にかられるところがあります。 けれども、私どもは信仰の詩人の選び取った沈黙から、主なる神さまこそそのご慈愛から選びとしての沈黙を守っていらっしゃることを教えられたのです。 そして、詩人の沈黙はやがて話さないではいられなくなったことにも似て、 主なる神さまもそのご慈愛から私どものために語りかけないではいられなくなってくださるという信頼を持って良(よ)いのだと教えられたのです。


ルカによる福音書で読んだ、「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった」という記述は、積極的評価のそれではないようです。 しかし、マタイやマルコの平行記事によれば、主イエスさまは沈黙を命じられたのです。ここに、弟子たちのネガティブな沈黙を、 主イエスさまはポジティブなそれに変えてくださるのだという暗示を読み取れるように想います。まして、皆さんがその祈りの路で選び取る沈黙は、 ご慈愛の神さまが豊かに祝福し、深い意味を持つものにしてくださるに違いないのです。お祈りしましょう。