渋沢教会
更新日:2010.1.27

1月24日 詩編による御言葉の説教「走り寄る愛」

浜崎 孝牧師
詩編40編1〜18節
ルカによる福音書15章11〜24節

私どもは今、「のぞみも消えゆくまでに」という聖歌をうたいました。「のぞみもきえゆくまでに/よのあらしになやむとき /かぞえてみよ主のめぐみ/ながこころはやすきをえん/かぞえよ主のめぐみ/かぞえよ主のめぐみ/かぞえよひとつずつ/ かぞえてみよ主のめぐみ」――これは、私どもの信仰生活にとって大切な知恵です。望みも消えゆくまでに、世の嵐に悩む時……。 そういう時、私どもは、主の恵みを数えるよりも、違うものを数えがちなのです。そうして、心の平安が得られない苦しみに陥ってしまうことがあるのです。 先週の聖書日課に、「五千人に食べ物を与える」という小見出しが掲げられたルカによる福音書9章10〜17節がありましたね。 そこに見出すキリストのお弟子たちは、解決を迫られた大きな課題に直面して、「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」と言っています。 彼らは、自分たちが持っているものは数えましたが、真に偉大な力をお授けくださる主イエスさまが共にいてくださるという恵みは数えなかったのでした。 これが、お弟子たちと共に、私どもが抱えている傾向なのです。ですから、「かぞえてみよ主のめぐみ」という知恵を実践することは、とても有益なことなのです。


詩編40編の信仰者は、「滅びの穴、泥沼」に落ちた大試練の中で、主の恵みを数えるという知恵を実践しています。 「主にのみ、わたしは望みをおいていた」(2a)は、前の口語訳聖書では、「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ」でした。 原文は、「待ちに待った」というものであり、月本昭男訳は「私はヤハウェをせつに待ち望んだ」です。 新共同訳は静的な感じですが、これはもっと動的なものであり、詩人が心の嵐に耐え闘ったことを知る言葉なのです。 そして、その闘いの中で彼は、主の信仰者らしい知恵を働かせたのです。


「主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。/滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ/わたしの足を岩の上に立たせ/しっかりと歩ませ /わたしの口に新しい歌を/わたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見/主を畏れ敬い、主に依り頼む。 /いかに幸いなことか、主に信頼をおく人/ラハブを信ずる者にくみせず/欺きの教えに従わない人は。」(2b〜5)――主の恵みを数えた信仰の詩人には、 主なる神さまへの感謝が湧き、主を賛美しないではいられなくなったのですね。4節の「わたしたちの神への賛美」は、 主ヤーウェの救いを感謝する歌ということであり、そういう感謝が新しく与えられたのです。そして、そういう感謝と賛美を伴う信仰が希望を見出し、 平安を得ることにもなるのです。なお、賛美の中に語られた「ラハブ」は、怪物を連想させるもので、前の口語訳では「高ぶる者」と訳されていました。


詩人は、6〜7節でも主の恵みを数え、そこからまた主への賛美を語る者になっています。「わたしの神、主よ/あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。 /あなたに並ぶものはありません。/わたしたちに対する数知れない御計(おんはか)らいを わたしは語り伝えて行きます。/あなたはいけにえも、 穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も 罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」 ――主の「多くの不思議な業」や「わたしたちに対する数知れない御計らい」を語り伝えて行くという信仰の詩人は、 注意深く主の恵みを数え出したに違いありません。そして、そういう知恵の実践からは、救いの約束を確かなものにする感謝や賛美もたくさん湧き溢れたはずなのです。


信仰の詩人の知恵の実践は、あの聖歌のように、「かぞえてみよ主のめぐみ」と隣人へ語りかける実践に発展しました。詩人は、次のように言い表しています。 「そこでわたしは申します。/御覧ください、わたしは来ております。/わたしのことは 巻物に記(しる)されております。 /わたしの神よ、御旨(みむね)を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み/大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。 /主よ、あなたはそれをご存じです。/恵みの御(み)業(わざ)を心に秘めておくことなく/大いなる集会であなたの真実と救いを語り /慈しみとまことを隠さずに語りました。」(8〜11)――主の恵みを数えることが感謝を湧きあがらせ、その感謝は賛美になったのですね。 そして、その賛美が感謝を強め、それを隣人に語って分かち合う力になったのです。ですから詩人は、「大いなる集会で正しく良い知らせを伝え /決して唇を閉じません」と言ったのです。大いなる集会(カーハール ラーブ)というのは、主ヤーウェを礼拝する集会のことで、 詩人はそういうところで信実にあかしをした……というのです。詩人は、39:3に語られていた、 「わたしは口を閉ざして沈黙し」という心境とは対照的な想いに導かれたことがわかります。私どもには、 「神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」(ルカ8:39)と語りかけた主イエスさまのお言葉が想い起こされます。 主の恵みを数えるという信仰の知恵は、すばらしい出来事を導き出すことになるのですね。


しかし、ここで考えさせられることに出会います。信仰の詩人は、「悪はわたしにからみつき、数えきれません。 /わたしは自分の罪に捕らえられ 何も見えなくなりました。/その数は髪の毛よりも多く わたしは心挫けています。」(13)と語ったのです。 ――詩人は、主の恵みだけではなく、「自分の罪」をも数えたのです。彼は、余計なことをしたのでしょうか。そうではありません。 主の恵みを数えるだけの実践は軽薄で、事柄にふさわしいとは言えないのです。詩人のように真摯な行為が伴ってこそ、 主の恵みを数えるという実践が深みを持ち、ほんとうのものになるのです。そこにこそ、人間らしい感謝と賛美が生まれるのです。


自分の罪を誠実に数えた詩人は、とても数えきれないという苦境に立たされました。そして、「主よ、走り寄ってわたしを救ってください。」と祈りました。 また、「主よ、急いでわたしを助けてください。」(14)とも祈りました。この詩の終わりのところでも同様の祈りを記しています。 「主よ、わたしは貧しく身を屈めています。 わたしのためにお計らいください。/あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。 /わたしの神よ、速やかに来てください。」(18)――これらは、とても良い祈りです。2bの祈りをヘルマー・リングレンという聖書学者は、 「主はわたしのほうへ身をのりだして、わたしの叫びを聞かれた」と訳していました。身をのりだしてまで私どもの祈りを聴いてくださる神さまは、 私どもに走り寄ってくださる愛の神さまなのです。今朝朗読されたルカによる福音書15:11以下は、主イエスさまが語られた「『放蕩息子』のたとえ」でした。 そのお話しには、罪を犯してボロボロになり、後悔しきりで帰ってきた息子を憐れに思い、まだ遠く離れていた息子に走り寄った父親の愛が語られていましたね。 その父親は、主なる神さまのことなのです。主イエスさまは私どもに、慈しみ深い神さまの走り寄る愛をお教えくださったのです。 ですから、詩人のように、「主よ、走り寄ってわたしを救ってください」と祈り、「わたしの神よ、速やかに来てください」と祈ることは、 的を射たことなのです。そして、そういう祈りが、主の恵みを数えるという知恵の実践において、また一つ数え出すことになる恵みを祝福されることになるのです。


私どもは今、ハイチの地震災害の悲惨を毎日のように見つめさせられているところですが、想い起こす愛があります。 それは、2007年7月の新潟県中越沖地震の時だったと思います。新潟にお住まいのご親戚のため、私どもの仲間は救援物資を車に積み、 急ぎ車を走らせ被災地に駆けつけられました。走り寄る愛……。信仰の詩人のように、「主よ、走り寄ってわたしを助けてください。 /主よ、急いでわたしを助けてください。」と祈る民に、主なる神さまは御救(みすく)いを携えて走り寄ってくださる愛の神さまなのです。 そして、そういう主の恵みを「数えきれません」と言い表して行くことが出来るのが教会であり、キリスト者の祈りの路なのです。お祈りしましょう。