渋沢教会
更新日:2010.2.17

2月14日 詩編による御言葉の説教「鹿が水を求めるように」

浜崎 孝牧師
詩編42編1〜12節
使徒言行録9章36〜43節

 

この信仰の詩人は、涸れた谷に水を求めてトボトボ歩いている鹿に、自分自身の姿を想ったのです。 彼も、人間らしく生きるためには欠かせない、命の水を求めて激しく渇いていたからです。 彼は、「いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか」(3節)と問いかけていますね。 理由はわかりませんが、彼はエルサレム神殿の礼拝に参加できない境遇にあったのです。 そして、それが命の水を汲む出来事である礼拝に、再び参与したくてたまらない想いでいたのです。

「少年時代から大事に保存した美しい神聖な思い出、それこそおそらく最も素晴らしい教育なのかも知れません。 そういう思い出をたくさん持っている人は、一生涯、救われます」と言ったのはドストエフスキーでしたが、 詩編の信仰者は礼拝の想い出をあたためることによって慰めを得、支えられました(5節)。それで、うなだれる自己を叱ったのです(6、12節)。

キリスト・イエスさまは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネによる福音書7章37節)と語りかけてくださいました。 どうぞ、魂の渇きを癒す出来事である礼拝で、神聖な想い出をたくさんつくってください。