渋沢教会
更新日:2010.2.27

2月21日 ペトロの手紙一による説教『キリスト者として生きる』

古畑 和彦牧師
イザヤ書 第29章17〜24節
ペトロの手紙一 第4章12〜19節

序 キリスト者とは


「キリスト者」という言葉が聖書において記されているのは、ここと、使徒言行録11章26節、26章28節の3箇所だけです。 使徒言行録26章28節は、新共同訳聖書では「キリスト信者」と訳されていますが、同じ言葉です。「キリスト者」とは、もともとは、 「キリストに従う者」という意味の、信仰者でない人々が信仰者につけたあだ名でした。「キリスト」のような者に従っている、 どうしょうもない者たちという、侮辱(ぶじょく)した表現でした。それを信仰者たちは、私たちはまさに「キリストに従う者」であると、 喜んで自分たちを表す言葉としました。ですから、本日の説教題「キリスト者として生きる」は、言い換えれば「キリストに従う者としてどう生きるか」ということです。


みなさんは、キリスト者――キリストに従う者にどんなイメージを持たれているでしょうか。この当時の信仰者がもつイメージは、「苦しみ」ということでした。 「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」(16節)。 キリスト者であるが故に、苦しみを受ける。しかし、恥じる必要はない。「キリストに従っている」おろか者だと言われたら、 神を賛美する生き方をしなさいと勧められているのです。


本論1 キリスト者として試練を生きる


ペトロが最初に取り上げたのは「火のような試練」でした。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、 何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」(12節)。この試練は、初代のキリスト者にとって、周囲からの迫害が第一だったでしょう。 しかし、それだけではありません。私たちは、病気をすることもあれば、経済的に困窮することもあるでしょう。あまり一生懸命になり過ぎて、 心身ともに傷ついてしまうこともあります。「こんなに頑張っているのに、どうして自分は、こんな目に会うのだろうか」と、 「何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」とペトロは言います。この「思いがけないことが」という言葉と、 「驚き怪しむ」という言葉とは、原文で読んでみますと、同じ種類の言葉です。「驚き怪しむ」は、4章4節では「不審に思い」と訳されていました。 そこで説明しましたように、その基礎になっているのは、「よそ者」、自分にとって異質の者という、そういう意味の言葉です。そのような者と見られ、 そのために苦しんだのです。


この12節は、自分に与えられる試練を「何か思いがけないこと」と見ないようにと言います。つまり、今試練で苦しむことは、 キリスト者として当然なことであると考えるようにということです。自分が、なぜ苦しみを受けるのか、おかしいではないかと、 考えるなということです。むしろ、苦しみは信仰から必然的に生まれるもの、信じるということは、苦しむということをも含むものと知るのです。


「火のような試練」とあります。この場合の「火」は、ただの火のように激しい試練ということにとどまらず、ものの真贋(しんがん)を試す火という意味でもあります。 第一ペトロ1章7節に「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され」とあります。本物か本物でないか、火にあぶってみれば、分かることがあるのです。 私たちの信仰が、本物かどうかが試される火です。それが「試練」なのです。試練としての苦しみなのです。苦しみに遭いながら、 こんなはずではない、と思ってしまうだけなのか。「キリストに従って」生きようとするのであれば、当然のことだと受け止めるのか。 そこで、私たちの信仰が問われるのです。


信じることに苦しみが伴うのは、なぜ当然なのでしょうか。さきはど、「よそ者」という言葉を使いました。 私たちが、この世にあってキリストに従おうとして生きるならば、それは、当然他の人々にとっては「よそ者」の生き方に見える。 これは避けられないのです。みなさんが、苦労しておられるのもここではないかと思います。家庭にあっても、学校や会社でも、 キリストに従って生きようとすると、この人は、おかしいことを言うとか、不思議なことをするとか、自分たちにはなじめない存在だと、 周りの人に見られてしまう。迫害されて命を賭けるようなことではないけれども、うっとうしいほどの、私たちの日常的な苦しみです。


この苦しみの中キリスト者はどう生きればいいのでしょうか。「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」(13節前半)。 ペトロは、「苦しみ」のゆえに消極的に生きるのではなく、むしろ積極的に、試練を「喜びなさい」と教えています。イエス・キリストも、 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口(あっこう)を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい」(マタイ5・11、12)と言われました。このペトロ第一の手紙は、このキリストの御言葉にしたがっているのです。


「苦しみにあずかる」の「あずかる」とは、「交わる、苦楽をともにする」という意味です。特にこの言葉のあとに「〜に」という言葉がくると、 それをパートナーとすることを意味します。ここでは、「キリストの苦しみに」がそれにあたります。 キリスト者はキリストの苦しみをパートナーとして人生を歩むというのです。使徒パウロもローマの信徒への手紙の8章17節で「もし子供であれば、 相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」と記しています。


なぜ、苦しみのなかでも喜ぶことができるのでしょうか。「それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」(13節後半)。 つまり苦難を忍んでいるのは、再臨のときに与えられる栄光を喜ぶためであるというのです。それは、未来に良いことがあるので今我慢しなさいというのではありません。 世の終わりの栄光の喜びが、いま、ここで先取りされるのです。しかも、この「喜びに満ちあふれる」は、「喜びおどりながら喜ぶ」というほどの喜びです。 苦しみの中で、そんな喜びに生きることができたらと思います。


本論2 キリスト者として「キリストの名」に生きる


ペトロは、14節で「キリストの苦しみにあずかる」ことの具体例をあげて、キリスト者としての生き方を勧めていきます。 「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」 (14節前半)。ペトロが具体的にあげているのは、キリストの名のゆえに非難され、ののしられることです。 十字架にかけられたキリストに向かって「通りかかった人々は……ののしり」、「祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱しました」。 さらに「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしりました」(マタイ27・39〜44)。 ペトロは、人間の罪のためにこのような苦しみを受けてくださったキリストを、三度も拒むという失敗を犯してしまった。 こうした失態を演じた者としてペトロは、「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです」とキリスト者たちに懸命に語りかけるのです。

キリストの苦しみにあずかる者を、ここで「幸い」な者と呼んでいます。ペトロは、キリストが「○○は幸いである」 と語られた山上の説教を思い起こしていたのではないかと思います。特に、先ほどもお読みいたしました5章11節 「わたしのためにののしられ、 迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」がペトロを思いの中にあったことは間違いないでしょう。


「キリストの名のために」苦しむことはキリスト教の宣教活動とともに始まり、キリスト者の定めでした。キリストは「わたしの名のために、 あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ10・22)と語られました。 使徒たちは、「キリストの名のために」苦しむことを不幸ではなく特権であるとさえ考えました。使徒言行録には「それで使徒たちは、 イエスの名のために辱(はずかし)めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き」(5・41)と記されています。


なぜ、このような苦しみが幸いなのでしょうか。「栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」(14節後半)。 これは、出エジプトの時に神の栄光が幕屋のあったことを取り上げて、同じようにキリスト者一人一人にも「神の霊」がとどまっていることを表しています。 大切なことは、栄光の霊が静かに私たちの上にとどまることです。それは慰めに満ち、力にあふれているから、苦しみが喜びに変わることができるのです。 私たちの感覚が麻痺してしまうことでも、努力して苦しみを喜びに変えることでもありません。私たちの上にとどまってくださる神の霊の御業なのです。

周りから苦しみが押し寄せてくる時、キリスト者は注意しなくてはなりません。というのは、自分が犯した罪のゆえに、私たちが非難され、苦しむこともあるからです。 「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい」(15節)。 キリスト者に対する警告に、このような罪のリストがあることに、私たちは驚きます。当時の社会的な状況が、そのような殺伐としたものであったのかもしれません。 しかし、それでは、年間三万人もの人が自ら命を絶つような、今の時代が殺伐としていない平和だと言えるでしょうか。 さらに、今、人類は地球の資源を無駄使いして、温暖化を引き起こし、多くの生命を危機にさらしています。 私たちは、真実な意味で「人殺し、泥棒、悪者」とは関係がないといえるでしょうか。「他人に干渉する者」はどうでしょうか。 この言葉の基礎になっているのは、「他人のものを見る」ということです。しかもその見方が、ただ、じつと見ているというだけではなくて、 他人のものを支配しようとして見るということです。それこそ泥棒の始まりであり、人殺しの動機となります。 そういうところにまでいく思いを、キリスト者もまた、決して免れてはいないのです。 最初は、人々の役に立とう、困っている人を助けようという善意で「他人のものを見ていた」かもしれません。 しかし、見ているうちに罪を犯してしまったのです。私たちはこの点、十分注意しなくてはなりません。 自分のいたらなさで、まわりの人びとから批判されたり非難されたりすると、これは「キリストの名」のためにそしられたと、 勘違いしたり、無理にそう思い込んで得意になることもあります。それはひとりよがりです。 キリスト者に対する非難が、全部「キリストの名」の故ではないということを心にとめなければなりません。


本論3 キリスト者として救いを生きる


キリスト者が犯すかもしれない罪の問題を取り上げたのち、ペトロはその関係で、世の終わりの裁きのことを取り上げていきます。 「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、 いったい、どんなものになるだろうか。『「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです」 (17、18節)。私たちは、神の裁きの原則を知らなければなりません。最初に「神の福音に従わない者たち」「不信心な人や罪深い人」が裁かれてから、 次に、ゆっくりと「神の家」の住人であるキリスト者が裁かれるというのではありません。先に、キリスト者が裁かれるのです。 しかも、裁きは今もう始まっているというのです。キリスト者が現在受けている苦しみにおいて神の裁きがすでに始まっているのです。 苦しみを通して、罪を暴き、信仰を試しているのです。


私たちは、ここで誤解してはいけません。神の裁きに耐えられるような信仰者になることがキリスト者の生き方ではありません。 私たちには、どうあがいてもこの裁きに耐えられないのです。ですから、キリストの十字架により頼むのです。 私たちが救われるのは、この十字架の恵みによるのであって、私たちは自分の力で堂々と大手を振って、救いに入るのではありません。 「やっと」、「かろうじて」、神の恵みによって救われるのです。キリストの十字架の恵みにより頼んでいるか、 いないか、だけがキリスト者と「神の福音に従わない者たち」「不信心な人や罪深い人」との違いです。キリスト者が立派だから救われるのではありません。


結論 神に委ねるキリスト者の生き方


「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」(19節)と、 恵みの神にゆだねることが勧められているのです。ここで神を「創造主」言われています。 これは、御自身が創造されたものを守ってくださる神の力と愛に対する信頼のゆえでした。さらに、この神は「真実であられる」お方です。


キリスト者は神にまかせて、私は何もしないのではありません。苦しみつつ善を行って、神の導きを待つのです。それを行なえば危険が伴うかもしれないが、 真実な創造者にすべてをゆだねて善を行ないなさい、と勧められているのです。


キリストは、十字架上で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23・46)とすべてを神に委ねました。私たちは、このキリストに従うキリスト者として、 創造主にすべてをゆだねる生き方をしていきましょう。


祈祷


御在天の父なる神さま。神さまの尊い御名を賛美します。「試練」とか「苦しみ」「裁き」と聞きますと、私たちはおののき、尻込みしてしまいます。 しかし、私たちがどのような道を歩もうと、主イエス・キリストが先頭を歩んでくださっています。私たちは、たとえ苦しみの中であったとして、 すべてを委ねてこのキリストに従うことができますように。そこにこそ確かな救いがあることを心にとめさせてください。 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン