渋沢教会
更新日:2010.3.23

3月21日 ペトロの手紙一による説教『大牧者キリストを模範に』

古畑 和彦牧師
エゼキエル書 第34章11〜16節
ペトロの手紙一 第 5章 1〜 5節

序 長老教会とは


私たちの教会は、カンバーランド長老教会と申します。アメリカのカンバーランド地方に誕生した教会の政治形態に長老制をとる教会です。 今年が、設立200周年を迎えます。様々な記念行事が行われ、日本からもツアーが予定されています。なぜ、私たちは、教会の政治形態に長老制をとっているのでしょうか。 『カンバーランド長老教会信仰告白』の「教会憲法」前文の一部をお読みいたします。「教会の政治形態とは、教会が政治を行なう構造のことをいう。 教会政治の目的は、教会が宣教の業を遂行するのを支援するところにある。長老教会の形態は、聖書に合致した教会の有機的一体性を具現するものである。 旧約聖書において、イスラエル王国時代には、教会政治は、半ば世俗的政治との混こうであったり、時には世俗的政治に翻弄されたりした。 イスラエル国家の滅亡後、バビロン捕囚期には、会堂が、契約共同体の組織形態として現われてきた。この政治形態が、長老教会の政治形態の原型である。 イエスと使徒たちは、会堂で礼拝し、またそこで教えた。パウロの都市における宣教活動は、通常、会堂において開始された。 イエスに従ってきた者たちがクリスチャンという名で知られてくるにつれ、その運動は次第にユダヤ教から離れて行き、 その政治形態は会堂の線に沿って発展していったのである。会堂から受け継がれた政治形態は、代表制であり、そこでは長老と呼ばれる一群の人たちが、 会堂の生活に関する事柄について、人々のために働いたのである」(63ページ)。このように、私たちの教会は、聖書から、 長老によって教会を治めるという方法をとっています。「あれ、牧師はどうなっているのか」と思われる方があるかもしれません。 私たちの制度では、牧師も長老の一人だと考えます。牧師は「みことばと聖礼典に仕える長老」と言い、長老は「治会長老」と呼んで、 教会を治める責任を持っていると理解します。ですから、長老教会において、牧師がいかにあるべきかと同じくらい、いやそれ以上に長老がいかにあるべきか、 ということが大切になります。ペトロは、この5章において最も大切なこととして、長老への勧めを行い、そしてこの長老に従うようにと教会員に勧めていくのです。 それは、教会生活、すなわち信仰の本質にかかわる重要なことなのです。


本論1 長老とは


1節をご覧ください。「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、 あなたがたのうちの長老たちに勧めます」。1節は、原文では、「そういうわけで」で始まります。ペトロは、これまで、4章で述べてきたことを受けて、 長老たちに「そういうわけで、○○をしなさい」と勧めるわけです。どんなことを受けているのでしょうか。4章17節に、こう書いてありました。 「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、 どんなものになるだろうか」。あるいは、さらに7節に「万物の終わりが迫っています」とありました。明らかにここで語られたのは、 教会の危機が訪れているということ、教会の実力が問われる時が、来ているということです。それは、しかも教会に苦しみが与えられるということなのです。 そこで、真実に、神の教会らしく生きているかどうかが、真剣に問われると言うのです。そこで、責任を持つのは、まず長老たちなのです。


ペトロは自分を三つの表現を用いて明示し、それに即して信仰者たちが所属する諸教会の長老たちに勧めをしていきます。 キリスト者が神からゆだねられた責任をいかに果すべきかを、自分という実例を通して教えていくのです。


ペトロはまず、「わたしは長老の一人として」と自分を表現します。使徒である自分と、教会の指導の責任を負うことにおいては、他の長老たちと違わないとの思いです。 「長老の一人」は実は、1つの言葉で、長老を意味する言葉に、「ともに」という接頭語がついた合成語です。 アジアの諸教会の長老たちが受けている苦難にペトロも一緒にあずかっているという意味がこめられています。 ペトロも、また各教会に立てられている長老たちも、それぞれに責任を与えられています。しかし、だれ一人として、 ペトロでさえも、自力でその責任を全うすることはできません。それぞれが互いに協力して初めてその責任を全うし得るのです。 ペトロは、このように、個人の役割の重大さを強調しながらも、互いの支えが任務遂行のために不可欠であることを教えているのです。 しかし、このことは長老たちだけにかかわることではありません。4章10節で見ましたように、信仰者全員がそれぞれ「賜物を授かっている」のです。 一人一人が与えられた賜物を用いて、神に仕えていくのです。その一人一人の個人的な責任とお互いの協力が神の御業の完成へとつながっていくのです。


次にペトロは、「キリストの受難の証人」と言って、自分に与えられている責任の内容を明らかにします。 「証人」とは、元来(がんらい)裁判所から過去に経験した事実についての供述を命じられた第三者を指す法律用語です。 初代教会では、キリストの生涯、死、復活を目撃した使徒たちがその事実を証言する際にこの用語を用いました。 そこで明らかにされているのは、キリストの十字架と復活の事実を、罪の赦しを得させる悔改めという目的のために証言することです。 しかし、キリストが十字架につけられた時、ペトロは、どこにいたのでしょうか。目撃者、主の恵みの出来事の証人として、はっきりそれを見つめていたのでしょうか。 ペトロは三度までキリストを否んだ者でした。主が、十字架につけられて殺されると予言されたとき、わたしは死ぬまでお供しますと言いながら、 その言葉を裏切ったのです。苦難の中にあるキリストを捨てたのです。ペトロは、ですから、自分が「キリストの受難の証人」である、 と言った時に、胸を張って言えませんでした。それならば、なぜ、なおかつ、ペトロはキリストの証人だと言えるのでしょうか。 それは、主を捨てた自分でありながら、キリストがどんなに深く愛してくださったかを知っているからです。その愛もまた十字架において分かったことなのです。 キリストの十字架から離れては、自分は自分であり得ない。この確信に立って、ペトロは自らを「キリストの受難の証人」と言いきっているのです。 キリストの十字架の苦しみはそのような私たちを覆うものです。そうでなければ、私たちは、牧師や長老であっても、信仰者として生きていくことはできません。


しかし、ペトロの責任は、過去の出来事とかかわるものばかりではありません。最後にペトロは、自分を「やがて現れる栄光にあずかる者」と紹介しています。 キリストが再び来られるという確かな約束にぴったり焦点を合せています。 信仰者はキリストの栄光に「あずかる者」です。 この「あずかる」と言葉は、苦難にあずかる場合にも用いられました。キリスト御自身が十字架の受難を通して栄光への道を切り開かれたように、 キリストの苦難に生きるキリスト者もまた、キリストの栄光にもあずかることができるのです。


本論2 長老とはどうあるべきか


2、3節には、長老としてのあるべき態度と、あってはならない態度とが示されています。「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。 強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、 権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」。ペトロは、長老たちに「神の羊の群れを牧しなさい」(2、3)と勧めます。 聖書において、神の民は「神の羊」と呼ばれています。


神は、この大切な「羊」を長老たちに委ね、「神の羊の群れを牧しなさい」と勧めるわけです。「牧する」とは何でしょうか。 羊飼いとして羊のいっさいの世話をすることです。羊を守り、導き、食物を与えるのです。訓練をして、進むべき方向を示し示すことが重要なのです。


以上のように神の羊を飼うことの重要さを説いて、次に、その働きをするための原則を三つ述べています。


第一の原則は、「強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話」をすることです。「強制されて」するのは、いやいやながら、心に喜びもなくする行為です。 パウロはコリントの信徒への手紙二で献金のことを取り上げ、「強制されて」を自由な喜びをもってする行為と対比させています。 「各自、不承不承(ふしょうぶしょう)ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。 喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(9・7)。ペトロも、義務感のみでする働きのことではなく、神に従う喜びをもって働きをするようにと教えている。

第二の原則は、「卑(いや)しい利得のためにではなく献身的に」する働きです。「卑しい利得のためにではなく」という語から、 当時の長老が給料をもらっていたことが推測されます。また彼らは、教会の財務責任者として誘惑もあったであろうから、金銭に対する貪欲を戒めたのです。 「献身的に」とは、「喜んで、熱心に、常に用意された心で」などの意味があります。いつも心が働きのために備えられていて、喜んでそれに当たるべきだというのです。


第三の原則は、「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範に」なることによって長老の働きに当たることです。 「権威を振り回して」は、「人の上に主となる」という意味です。キリストのみが真の主で、すべての者はその僕です。教会の羊は、本来、神の群れであり、 神の所有です。長老たちは、それを神からゆだねられているにすぎないのです。ですから、長老たちは、信仰者を支配してはならないのです。 お金に卑しくなることと権威主義とは牧者の陥りやすい落とし穴です。むしろ「模範」にならなければなりません。「模範」は「手本」という意味で、 だれでもその手本を見て、それをまねることができるということです。長老たちは、まずキリストを模範としてまねをします。そうしますと、 今度は、自分が、他人がまねてもよい模範になることができるのです。


長老への勧めの言葉を見てきました。牧師も含めて長老の働きがいかに大変かを思わされます。神は、この大変な働きに生きる者に豊かな恵みを与えてくださいます。 「そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります」(4)。讃美歌97番に「羊飼いの羊飼いよ、 主イエスよ」とあるように、主イエス・キリストこそが、「大牧者」なのです。この大牧者が、苦難の中で長老として仕える者に、 「しぼむことのない栄冠」を与えてくださるのです。長老たちは、自らの弱さという現実を十分承知しながらも、大枚者キリストが再臨される日を望み見て、 与えられた責任を果して進んでいくのです。大牧者キリストを模範に進んでいくのです。


本論3 皆互いに


ペトロが、教会に勧めているのは、長老の働きだけではありません。「同じように、若い人たち、長老に従いなさい」(5a)。 「同じように」とは、5章2節の「自ら進んで」と同じようにということです。当時は、長老が年配であることが多かったので、 より若くて指導を受ける人たちは、長老に服従しなさい、と勧めます。長老の職務が重ければ重いほど、その長老に従うということが重要になっています。 そのようにして秩序を保っていくのが長老教会の生き方です。


そのとき、どうしても重要になるのは、「皆互いに謙遜を身に着けなさい」(5b)という言葉です。この「皆」というのは、長老も若い人たちもということです。 「謙遜」は、ギリシャにおいては、「低いもの、卑しいもの、奴隷的な心の態度」で、徳のある品性とはみなされていませんでした。しかしキリスト教において、 初めて「謙遜」の徳のすばらしさが見出されるようになりました。ここでは、「謙遜を身に着けなさい」と言われています。ある学者は、この語は、 キリストが弟子の足を洗われた時に手ぬぐいを腰にまとわれたこと、と同じ意味である言います。そうであるとすれば、ペトロにとって、 これはなおさら意義深い表現でした。その時イエスが教えられた教訓の一つは、まさにこの「謙遜」であったからです。キリストが謙遜であられたということは、 本来キリストは造り主であり、すべてを与える側に立つおかたであったのに、被造物の側に立たれたということです。ここにも大牧者キリストの模範があります。


人間の謙遜さは、神に対する正しい関係によって決定されます。真の神に対する正しい態度から、真の謙遜が互いの間に生まれてくるのです。これは、 ただ若い人が長老に従うだけでなくて、長老たち自身に対する戒めでもあります。謙遜に人を導き、謙遜に人に導かれるのです。


なぜ謙遜でなければならないかというと、さらに「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」(5c)からです。 これは箴言3章34節からの引用です。神は高慢な者には「敵とし」と、強い言葉で述べられています。「高慢な者」は、神に敵対しているからです。 彼は自らを神の座に置いているからです。しかし「謙遜な者」は神に従順な者ですから、神は彼に「恵みをお与えになる」のです。


結論 奉仕者の心得 キリストを模範として


今から80年以上前、中国でジョン・宋(そう)という説教者が活躍していました。はなはだ個性の強い伝道者で、メッセージはすばらしかったのですが、 その激しい気性はしばしば人を躓かせたといいます。その彼が悔い改めて一片の詩を書きました。


それは次のようなものでした。


かつては、自分を表すことが好きだった。

今は、キリストのうちに隠されたいと思う。

かつては人にほめられることを求めていた。

今は、キリストに喜ばれたいと思う。

かつては、奉仕の成果を求めていた。

今は、主のみこころが成し遂げられることを喜ぶ

かつては、思いのままに人をさばいていた。

今は、キリストのうちにあって自らを顧みる。

かつては、奉仕の忙しさを喜んでいた。

今は、耐え忍んで待つことを学んでいる。



祈祷


教会のかしらである主イエス・キリストの父なる神。尊い御名を賛美いたします。私たちの大牧者であるキリストは、弟子たちの足を洗われて、 「謙遜とか何か」の模範を示されました。キリストは、裏切ったペトロを赦して、「愛とは何か」の模範を示されました。 そして、なによりも十字架で流された血をもって、私たちをあがない、清めてくださいました。そこで、私たちは生かされています。 そこで、私たちは愛されていることがどういうことであるかを知っています。私たちは、この大牧者であるキリストの模範を辿(たど)り、 長老も牧師も教会員も、それぞれの務めを、全うすることができますように。どうぞ、この教会に集う一人一人が、このキリストの愛の中で、 望み溢(あふ)れる思いを味わうことができますように。主のみ名によって、祈ります。アーメン