渋沢教会
更新日:2010.4.27

4月18日 ペトロの手紙一による説教『恵みに踏みとどまる』

古畑 和彦牧師
詩編 第46編 1〜12節
ペトロの手紙一 第 5章 6〜14節

序 ペトロの最終勧告


昨年の5月から読み進めてまいりました、ペトロの第一の手紙も、本日で最後となりました。この手紙全体を通してペトロは結局何が言いたかったのでしょうか。 12節で、ペトロ自身が次のようにまとめています。「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、 勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」。ペトロは、神の恵みの事実を明示し、 信仰者たちが「恵みにしっかり踏みとどまる」ことを求めてきました。では、どのようにしたら「恵みにしっかり踏みとどまり」続けることができるのでしょうか。 9節には、「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」とあります。信仰の戦いなしには、「恵みにしっかり踏みとどまり」続けることはできないのです。 ペトロはこの最終的勧告を、6、7節では信仰の戦いの備えについて、8、9節では信仰の戦いそのものについて、 10、11節では信仰の戦いの土台についてそれぞれ明らかにしながら、手紙の最後で一段と力を込めて勧めをなしています。


本論1 信仰の戦いの備え


信仰の戦いをするために備えることは「だから、神の力強い御手の下(もと)で自分を低くしなさい」(6節a)ということです。 神の前に自分を低くすることは、すべてのものを支配しておられる神に自分を委ねることにほかなりません。信仰の戦いは、 自分の力ではどうすることもできないものです。ただ神の前に自分を低くし、神にすべてを委ねている者のみが、神の力強い御手によって、 勝利を得ることができるのです。


こうして、神の御手の下に自分を低くした者には、神の約束が待っています。「そうすれば、かの時には高めていただけます」(6節b)。 「かの時」とあります。これは「神の時」ということです。それは時には異常に長く感じられるかも知れません。 しかし、その時が、あとから考えると、最もふさわしい時であったと分かるのです。生ける恵みの神は、私たちに対する答えをもっています、 しかも一番ふさわしい答えを、一番ふさわしい時に与えてくださるのです。


ペトロは、続く7節で、「自分を低くする」とは「思い煩いは、何もかも神にお任せする」ことにほかならないことを教えています。 この「思い煩い」という言葉は、「分ける」という意味の言葉からできています。心が一つのものに集中されずに、分散している状態をいいます。 つまり、「思い煩い」とは、心が神に集中していない、自己中心の生き方の表れです。神の力ではなく、人間の力で何とかしようとすることです。 これでは、信仰の戦いに勝利できるはずがありません。


もし、人の心が神に向かって集中されるなら、思い煩いは取り除かれます。ですから、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」と言うのです。 この「お任せしなさい」と言う言葉は、「投げかける」という意味の言葉です。思い煩いが起こってきたら、「神に投げかける」のです。 これは、思い煩いをなかったことにすることでも、努力して思い煩わないことにすることでもありません。 もはや人間の努力、力、経験ではなく、ただ「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう」(詩編50・15)と言ってくださる神に向かって、 その思い煩いを投げかけるのです。


しかも、「思い煩いは、何もかも」と言われています。「思い煩い」を全部残らず「神にお任せ」するのです。神の御手で捕らえることのできないほどの苦しみは、 この世にはありません。神の御手はもっと大きいのです。


そうすることができるのは、「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるから」(7節b)です。神は人が投げかける思い煩いをすべて面倒みてくださるのです。 キリスト者の生活は、すべてを神が「心にかけていてくださる」という信仰で貫かれています。自らの無力さや弱さをしっかりわきまえ、 同時に私たちのすべての必要を知っておられる父なる神に心から信頼するのです。私たちの必要のいっさいを備えてくださるという事実を確信し、 「その日の苦労は、その日だけで十分である」と知って、日々与えられた使命に全力を注いで生きることができるのです。


本論2 信仰の戦い


ペトロは、具体的に、信仰の戦いについて記していきます。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、 ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(8節)。ここに出てくる悪魔の姿は、私たちも思い浮かべて、 想像することができるかもしれません。縞馬(しまうま)が、ライオンに襲われるとみんな頭を真ん中にして、群れを作ります。後足を跳ね上げながら、 ライオンが攻め込んでくるのを守ります。しかし、ライオンは周りをぐるぐる廻って、弱そうな馬が見つけ出して襲うのです。 そういう様子を思い起こすことができます。ペトロは、悪魔に襲われる「弱そうな馬」とは、身を慎んでいない者、目を覚ましていない者だと言います。 「身を慎み」という言葉は、このペトロの手紙に何度もでてきました。酒に酔っていない状態をいう言葉です。文字通りの意味もあったと思いますが、 道徳的な面でも霊的な面でも、無感覚状態になってはならないということです。魂が眠りこけ、無感覚になっている者を悪魔は狙っているのです。


この悪魔との戦いに勝利するために「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(9節a)とペトロは言います。悪魔に抵抗し勝利を得るためには、 「信仰」という場にしっかり踏みとどまらなければならないのです。「しっかり踏みとどまって」と訳されているのは、 建物を建てるときの基礎の堅固さを表わす形容詞です。ヨハネによる黙示録12章11節には「兄弟たちは、小羊の血と/自分たちの証しの言葉とで、 /彼に打ち勝った」とあります。彼とは悪魔のことです。悪魔に打ち勝つ信仰とは、イエス・キリストの十字架の血と、信仰者の「証しの言葉」なのです。 私たちもこの信仰に「しっかり踏みとどまって」いたいと思います。


この「しっかり踏みとどまって」とか「抵抗しなさい」とか聞きますと、鎧兜で武装して仁王立ちになっているようなイメージを持たれるかもしれません。 実際、信仰を守っていると言いながら、悪魔に対してではなく、人間関係においても鎧兜で武装して仁王立ちになってしまうということが起こります。 その鎧兜(よろいかぶと)のぶつかり合う、がちゃんがちゃんという響きや、そこから出てくる、不愉快なきしみが私たちの生活に起こってくるということがあります。 そうしなければ、どこから来るか分からない悪魔の攻撃に勝てないと思いこんだりします。しかし、これこそが7節でペトロが警告した「思い煩い」ではないでしょうか。 悪魔がどこから攻撃してくるか分からないからと思い煩って完全武装し、身動きが取れなくなる。それによって、人間関係を傷つけてしまう。まさに悪魔の思う壺です。 「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」という勧めは、7節の「何もかも神にお任せしなさい」の次にくるのです。そのことを私たちは忘れてはなりません。

続いて9節の後半をご覧ください。「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。 それはあなたがたも知っているとおりです」。信仰の戦いは、ある時代の、ある地域の、一部の信仰者だけのものではありません。 それは全教会的なものです。時代を超え、地域を超えて、教会の「兄弟たち」は、みな「同じ苦しみに遭っている」のです。 私たちは、このような兄弟姉妹の苦しみを聞いても具体的には何もできないかもしれません。しかし、祈りにおいて「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」 (ローマ12・15)生き方をすることはできます。実は、この生き方、この祈りこそ、悪魔が最も嫌うことなのです。


以上のように見てくると、6、7節の自分を低くすることと、8、9節の「戦い」が深くかかわり合っていることが明らかになります。 生ける神の力強い御手の下で自分を低くすることこそ、神以外の何者にもへりくだらず、徹底的に悪魔に立ち向かえる唯一の道なのです。 信仰の戦いを戦い続けるためには、まず「神の力強い御手の下で自分を低くする」こと、つまり主なる神への礼拝が正しくなされる必要があります。 この原則からも、主日礼拝と週日の歩みの関係が明らかです。主日礼拝は週日の戦いのための不可欠な基盤であり、 週日の歩みは主日礼拝に向かって展開される礼拝の日々なのです。


本論3 信仰の戦いの土台


次の10、11節では、固く信仰に立って悪魔に立ち向かう信仰者の戦いの土台を明示しています。10節は7節の勧めをさらに詳しく説き明かしています。 「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、 しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」。この10節は神の御計画の確かさの保証です。 栄光が永遠であるに対して苦難が「しばらくの間」であることが指摘され、苦難によって鍛えられたキリスト者の状態が示されています。 神はこのように苦闘している者たちを堅く立たせ、信仰を全うさせてくださるのです。


神について2つの修飾句があります。第一に、「あらゆる恵みの源である」神と言われます。「あらゆる」は単数で、 神は1つ1つの具体的必要に対して恵みを満たしてくださるかたである、という意味が込められています。 第2に、「キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった」神と言われています。 神は、私たちを栄光に至るようにと招いてくださる方であり、その業を「キリスト・イエスを通して」なさるお方です。 しかし、この栄光に至るのは、「しばらくの間苦しんだあと」です。ペトロは、信仰の戦いの勝利者を「完全な者とし、 強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」という言葉で現わしています。この「完全な者……くださいます」という言葉は、 一度、どこかが欠けてしまったり壊れてしまったりして、不完全になったものを、繕い直して元に戻すという意味の言葉です。 たとえば、マルコによる福音書1章19節にこのような表現があります。「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、 舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると」。この「網の手入れをする」、口語訳「繕う」という言葉と同じ言葉なのです。 恵みとは、私たちの破れを繕ってくださるものなのです。私たちの基盤がぐらぐら揺れて、どこかの土台石が、外れそうになった時、 神が手を添えて、それを直してくださるのです。私たち自身が、ぼろぼろになり、崩れそうになると、神が、それを支えてくださる。 そして、完全なものにしてくださるのです。私たちを本来のものにしようとしてくださるというのです。 そういう神の恵みの中に私たちは踏みとどまり続けることができるのです。そのような神の恵みから、 私たちを退けるものと、私たち自身が戦うのです。ヤコブは手紙のなかで「神に服従し、悪魔に反抗しなさい。 そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます」(ヤコブ4・7)と語りました。


結論 愛によって支えあう教会


ペトロは、11節で「力が世々限りなく神にありますように、アーメン」と頌栄がささげられています。


続いて、この手紙の最後の部分にきて、ペトロは口述筆記者のシルワノから筆を借り受けて、自筆のあいさつを書きます。 「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。 この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。」(11、12節)。 この「バビロン」とは、ローマのことです。ローマの都を、かつてユダヤの民を攻め滅ぼした、バビロンに譬えたのです。 同じように教会を攻め滅ばそうとするローマの権力が、ここで隙を狙っているのです。しかし、また、ローマの権力やバビロンの権力だけではないでしょう。 私たちの思い煩いにつけこんで、いつの間にか私たちを、信仰の場所から、引きずり降ろそうとする力は至るところで働いているのです。 そういう悪魔は、私たちの周囲の至るところにうごめいています。それを私たちは、否定することはできません。 ですから、私たちは、「この恵みにしっかり踏みとどまる」のです。


ペトロは、手紙を結ぶに当たって、教会内での相互の愛をしっかり持っているようにと勧めます。「愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。 キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように」(14節)。「愛の口づけ」は、これによって神の家族としての一体感を強く表わしていました。 ここに、教会の姿があるのです。この「愛」というのは、いったい何なのでしょうか。その1つの意味は、信仰の戦いをするために、お互いに励まし合う愛です。 信仰者たちが「恵みにしっかり踏みとどまる」ことができるように支えあう愛です。教会の中で、お互いに鎧兜に身を固めて、角突き合っていたのでは、 愛の口づけなど交わすことはできません。真実の愛の口づけが生まれてくるところ、その愛の中でこそ、私たちは思い煩いから自由になり、 隙を見せずに悪魔と戦うことができるのです。この愛は、いったいどこから生まれてくるのでしょうか。私たちが1つになって、 キリストの恵みの中に、生きているところからではないでしょうか。思い煩いを捨てる1つの場所、みんなの共通の場所を持っているからではないでしょうか。 そして、そのことをよく知っている人間がここに生き続ける限り、私たちの愛し合う生活があるのです。そこから、一人で戦っているのではない、 みんなで戦い続ける生活が生まれてくるのです。そして、このペトロの手紙が、そうしているように、私たちを支える力が世々限りなく神にあるようにとの、 頌栄を歌い続ける教会であり続けたいと心から願います。


祈祷


主イエス・キリストの父なる神。神の尊い御名を心から賛美いたします。私たちを、キリストの恵みに踏みとどまらせてください。 主イエス・キリストが十字架について死に、甦ってくださり、いま、私たちと共にいてくださるという事実、それだけで、 私たちにとってあなたの恵みは十分であることを悟らせてください。私たちの思い煩いを、神にお任せし、身を慎んで、 しっかり目を覚ましていることができるように導いてください。自分を雁字搦(がんじがら)めにする鎧兜ではなく、 神の愛と恵みによって悪魔に勝利することができる者としてください。そして、何よりもすべてのことにおいて、 あなたに栄光を帰することを許してくださいますように。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン。