渋沢教会
更新日:2010.5.21

5月16日 エズラ記による説教『神に心を動かされて』

古畑 和彦牧師
エズラ記 第 1章 1〜11節
マルコによる福音書 第12章41〜44節

序 エズラ記を学ぶことの意味


本日から皆様方と旧約聖書のエズラ記を共に学んでまいります。エズラ記とは、学者エズラなどに導かれたイスラエルの人々が、 紀元前6世紀に、捕囚の地バビロンからエルサレムに帰還して、労苦の末に、神殿を再建していく物語です。 それは単なる「箱もの」としての神殿の建築が目的ではなく、神殿で捧げられる礼拝を中心とした信仰者としての生活を建て上げることが目的でした。 もともと神殿が破壊され、イスラエルの民がバビロンへ捕囚につれて行かれることになったのはイスラエルが、 「諸国の民のあらゆる忌(い)むべき行いに倣(なら)って罪に罪を重ね、主が聖別されたエルサレムの神殿を汚した」(歴代下36・14)罪の故でした。 イスラエルの民は、捕囚の地での苦難の中で神に立ち返ります。神は、そのイスラエルを赦してくださり、もう一度やり直すチャンスを与えてくださったのです。 同じ過ちを起こさないために、神殿の再建とともに、学者エズラによって御言葉による徹底的な改革が行われていきます。 そのことによって、信仰共同体であるイスラエルは再興していくことになりました。私たちは、エズラ記を学ぶことを通して、 自らの信仰の歩みを振り返ってみたいと思います。私たちが、人生をかけて建て上げようとしているものは何か、それは単なる形だけの「箱もの」ではないだろうか。 礼拝と御言葉に基づいた信仰はしっかりと建て上げているだろうか。そんなことを考えながら与えられた御言葉を読んでいきたいと思います。


本論1.神は動かされた-王の心を


「ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた」(1節前半)。


「ペルシアの王キュロスの第一年」とは紀元前539年ことです。圧倒的な力をもって、エルサレムを倒し、イスラエルの民を捕囚とした新バビロニア帝国は、 ペルシアの王キュロスによってあっけなく滅びます。このキュロス王によってイスラエルの人々は捕囚から解放されることになります。 しかし、エズラ記1章1節で静かに示されるのは、本人の自覚はどうであれこの強大な王の「心を動かされた」のは主なる神であるということです。 神は、「エレミヤの口によって約束されたことを成就するため」すなわち捕囚民を彼ら自身の土地に返すために「ペルシアの王キュロスの心を動かされ」ました。 エレミヤ書29章10節には次のように記されています。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。 わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」。捕囚の地で神に立ち返ったイスラエルの民にとっても、この御言葉は、実現不可能に思えました。 新バビロニア帝国の繁栄は永久に続くかのように思えました。御言葉にかかわらず事態は少しも好転しません。捕囚の地での苦難は増すばかりです。 「神は自分たちを捨ててしまわれたのではないか」、「もう神の約束の御言葉は成就しないのではないか」とあきらめかけていた時に、 突然「ペルシアの王キュロスの第一年」はやってきます。神は、キュロス王に、バビロンを倒して世界を征服させるという大事業を達成させ、 彼の心を動かされるという奇跡をとおして、約束の御言葉を成就されたのです。一度、エレミヤをとおして約束された御言葉を、 神は決して変えられることはありませんでした。私たちも、神の御言葉に不安を覚えることがあります。しかし、目に見えないけれども、 歴史を支配し、人の心を動かされる主なる神は、必ずご自分の語られた御言葉を実現へと導いてくださるのです。


「キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。『ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。 この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた」(1節後半〜2節)。


「布告」と記されている語は「声」を意味し、口頭での通達を表します。本来口頭で行われる布告を、わざわざ「文書にも記して」います。 この布告がいかに重要なものかが分かります。「天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った」などと聞きますと、 キュロスが神を信じているかのように思えてしまいますが、そうではありません。これは彼が征服支配した諸国民の宗教に対する政治的姿勢を示すものです。 新バビロニア帝国が反抗する可能性を持つ人々を追放することで自らの安全を保とうとしました。それに対して、ペリシアは、 征服地の宗教に敬意を払うことで征服地の人々の忠誠を得ようとしたのです。キュロスの言葉が社交辞令であったとしても、 イスラエルに好意的であったことは間違いありません。当時、ペリシア王宮には、多くの有能なイスラエル人をいたこともよい影響を与えていたことが考えられます。 もちろん、すべての出来事の背後に、人の心を動かされる主なる神がおられることは言うまでもありません。


この布告の核心は「エルサレムに……神殿を建てること」にありました。イスラエルの民は神殿の再建のために捕囚からの帰還を許されたのです。 なぜ、神を信じていないキュロスが神殿に興味をもったのかは分かりません。イスラエルの人々が切望してやまない神殿建築を許可することで、 イスラエル人の支持を得ようとした政治的な理由であったかもしれません。 今日の政治家が「箱もの」を作ることで選挙民の支持を得ようとするのと同じであったかもしれません。 しかし、イスラエルにとっては、礼拝の場である「神殿を建てること」は、神に対して果すべき最高の責任でした。 アブラハムは旅の途上で祭壇を築き、モーセは幕屋を作り、ソロモンは神殿を建設しました。これらすべての目的は「神を礼拝する」ことにありました。 礼拝をするために、イスラエルは帰って行くのです。目的を混同してはいけません。ところが、帰ってきたイスラエルの民はいつの間にか、 「神を礼拝する」ことよりも自分の生活のことを優先させていきます。そのことによって、罪が入り込み、その生活自体が崩れていくことになりました。 私たちは何を目的にして人生を建て上げているでしょうか。宗教改革が生み出したウェストミンスター小教理問答の問いの一は、「人のおもな目的は、何ですか」です。 その答えは「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」。「神を礼拝する」ことを第一とする人生が、 「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」へとつながっていきます。神が歴史を動かし、王の心を動かしてまでしてくださったのは、 そのような人生を築くためであったのです。


本論2.神は動かされた-民の心を


「あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。 神が共にいてくださるように」(3節)。


布告の呼びかけは「主の民に属する者」に向けてなされました。「だれでも」というのは、主の民に属する者は皆「だれでも」ということです。 つまり、すべてのイスラエルの民に帰還がすすめられています。しかし、すでに70年の年月が過ぎています。まさに「住めば都」で、捕囚の地とはいえ、 そこに生活の基盤をもち、中にそれなりの社会的な地位を得た者も少なくありませんでした。道のりは遠く、エルサレムがどのような状況にあるのかも分かりません。 「神殿の再建」と言われても、エルサレム神殿を実際に見たことがある者はほとんど死に絶えていました。 このような状況の中で、家族をあげてエルサレムに帰るには勇気と信仰が必要でした。


「すべての残りの者には、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ。』」(4節)


同じ個所を、新改訳聖書で読みますと次にようになっています。「残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、 その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」この「残りの者」とは、 様々な理由でエルサレムに帰還することを断念した人々ことです。その「残りの者」にも役割がありました。「献げ物」によって、 帰還する人々を「援助する」(新改訳)という責任でした。しかし、これは強制ではなく、あくまでも自発的に捧げられた「随意の献げ物」でした。

「そこで、ユダとベニヤミンの家長、祭司、レビ人、つまり神に心を動かされた者は皆、エルサレムの主の神殿を建てるために上って行こうとした」(5節)。


キュロスを「動かされた」神は、また同様に「主の神殿を建てるために上って行こうと」人々の心をも動かされました。 神が歴史を支配し、異教徒の王の心を動かされるという奇跡をなさっても、神の民の応答がなければ、それは無益です。 民は自らの決断をもって答えねばなりませんでした。神のための働きについて、あれこれ論議することはやさしいことです。 しかし、実行するためには決断がいります。私たちはふだん、単なる気持ちと決断の間に大きな淵(ふち)のあることに気づきません。 しかし、立ち上がろうとする時、決断の必要なことを知らされます。多くの場合は、神の働きと大きさと自らの力の小ささを比較して、尻込みしたくなります。 しかし、「神に心を動かされた者」は、しっかりと立ち上がることができるのです。


こうして、「神に心を動かされた」「ユダとベニヤミンの家長、祭司、レビ人」たちは、「エルサレムの主の神殿を建てるため」という明確な目的意識を持って、 エルサレムへと帰還することになりました。「神に心を動かされた」者の特色は、この明確な目的意識です。人は、明確な目的意識を持つことによって、 強くされ、たとえ困難な働きであっても成し遂げていくことができるのです。


神が「心を動かされた」のは、エルサレムに帰還する人々だけではありませんでした。「周囲の人々は皆、あらゆる随意の献げ物のほかに、 銀と金の器、家財、家畜、高価な贈り物をもって彼らを支援した」(6節)


「周囲」には、さまざまな理由でエルサレムに帰還ができないイスラエルの人々がいました。また、イスラエルと親しく交わっている他国人もいました。 神はこのような人々の「心を動かされた」ので、旅立つ者に、物心両面で支援を行ったのです。神が「心を動かされた」といっても、 嫌がる人々の心を無理やり動かして、したくもない援助をさせているというのではありません。イスラエルの人々の普段の誠実な生き方が、 「周囲の人々」によい影響を与えていたのです。一緒には行けないが、できる限りの応援をしようとする思いが与えられていたのです。 私たちは、「周囲の人々」にどんな影響を与えているでしょうか。


「支援した」という言葉は、「手を強める」という表現で、「励ます、助ける」という意味です。これは、義務感からではなく、 「随意」――自発的な「進んでささげる」(新改訳)精神をもってなされました。神の働きには、自らの生涯をかけて献身する者と、 その人を物心両面にわたって支える者とが必要です。私たちは、宣教のために献身している方々をどれだけ、物心両面にわたって支えているでしょうか。


3.神は動かされた-再び、王の心を


神殿建設のために、神は再び王の「心を動かされ」ます。


「キュロス王は、ネブカドネツァルがエルサレムの主の神殿から出させて、自分の神々の宮に納めた祭具類を取り出させた。 ペルシアの王キュロスは財務官ミトレダトによってそれを取り出させ、ユダの首長シェシュバツァルの前で数えさせたところ、その数は次のとおりであった。 金の容器三十、銀の容器一千、小刀二十九、金杯三十、二級品の銀杯四百十、その他の祭具一千、以上金銀の祭具の合計五千四百。 シェシュバツァルは、捕囚の民がバビロンからエルサレムに上って来たとき、これらの品々をすべて携えて上った。」(7〜11節)。


新バビロニア帝国は、エルサレムを破壊した時、エルサレム神殿の祭具類をバビロンに持ち去りました。それだけでなく、 それらの器具を偶像礼拝のために用いていました。キュロス王は、これらの祭具類を、エルサレム神殿のために返還することを「財務官ミトレダト」に命じ、 「ユダの首長シェシュバツァル」に渡しました。帰還する人々は「これらの品々をすべて携えて」エルサレムに上っていきました。 これから、エルサレム神殿が再建するために出かけようとする民に、神殿が完成した時に必要となる祭具類を渡されたのです。 私など、そんなものは引越しの荷物になる、神殿ができた時に完成祝いにプレゼントすればいいのではと思ってしまいます。 しかし、イスラエルの人々はそうではありませんでした。彼らは、自分たちのもとにこれらの祭具類を返ってきた時、大きな喜びに包まれました。 神が、再び王の「心を動かされ」て、礼拝に不可欠な祭具類をくださったということは、どんなに困難であっても、神殿は再建できる、という保証でした。 彼らは、祭具類を見るたびに、神が自分たちを導いてくださることを信じ続けることができたのです。私たちプロテスタント教会は、 礼拝用具にこれほどの思い入れをすることはありません。なぜなら、礼拝そのものに祭具類が不可欠であったこの時代の礼拝と違い、 私たちの礼拝の中心は、聖書の御言葉にあるからです。私たちは、「祭具類」によってなく、 御言葉によって神が自分たちを導いてくださることに確信を持つことができるのです。


結論 神は動かされる-あなたの心を


本日は、神が様々な人々の心を動かされて御業をされることを見てきました。それも強制ではなく、自発的な進んでささげる精神をもってなされました。 これは今日でも同じです。神は、私たちの心に今も働きかけておられます。私たちを私たちしかできない神の御業のために導いておられます。 それは、困難な働きかもしれません。しかし、神は御言葉をもって、私たちを支えておられます。私たちはそのことを信じて、 「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ」人生を歩んでいきましょう。


祈祷


ご在天の父なる神。尊い御名を賛美いたします。王の「心を動かされ」、イスラエルの人々の「心を動かされた」主なる神は、 今私の心も動かされようとされています。私ができることは、「貧しいやもめ」が捧げた「レプトン銅貨二枚」と同じような、 取るに足らないものかもしれません。しかし、神が「だれよりもたくさん」だと評価してくださることを喜びとして生きていけるようにしてください。 そして、私なりに、礼拝と御言葉に基づいた、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ」人生を歩んでいけるように導いてください。 主イエス・キリストの御名によってお祈りします。