渋沢教会
更新日:2010.6.13

6月13日 詩編による御言葉の説教「オリーブの木のように」

浜崎 孝牧師
詩編52編1〜11節
ローマの信徒への手紙11章17〜24節

私どもは、人間らしく想い、人間らしく語り、人間らしく生きたいと願って来た者ではないでしょうか。キリスト・イエスさまに出会った私どもは、 そんな祈りを与えられたのです。そういう私どもはきょう、私どもの祈りとは正反対のあり様(よう)を志向しているかのような男性のことを見つめさせられています。 ちょっと珍しい雰囲気の詩です――「普通の場合と違って、祈りが聞かれるようにという訴えや、救いに対する熱心な嘆願はなく」、 いきなり「悪事を誇る」者への痛烈な批判を展開しています――が、詩編52編の信仰者は、非人間的なことになっている男性へ次のような語りかけをしています。 「力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。/神の慈しみの絶えることはないが/お前の考えることは破滅をもたらす。/舌は刃物のように鋭く、 人を欺く。/お前は善よりも悪を 正しい言葉よりもうそを好み/人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む。/神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。 /お前を天幕から引き抜き/命ある者の地から根こそぎにされる。」(3〜7)……まるで、預言者の書(しょ)を読んでいるようですね。


詩編の信仰者が語りかけた男性は、「力ある者」とよばれていますが、それは経済的な力があったからでした。9節は、次のように語っています。 「見よ、この男は神を力と頼まず/自分の莫大な富に依り頼み/自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。」――莫大な富に依り頼む者というのですが、 この男性にについてG.A.F.ナイトという聖書学者は、「かれは、神の代りに、その銀行残高に依存する」と、面白い解説をしていました。 ナイト先生のように解説されると、詩編52編はいっきに身近なものになりました。私も年金生活に入りました。借住いですし、年金だけでは生活できません。 そうして、「神の代りに、その銀行残高に依存する」という的外れは、私の祈りの課題になっているのです。


それはそれとして、この批判された男性は、「お前の考えることは破滅をもたらす」と言われていますね。彼は、人間らしく想うということからはかけ離れていたのです。 では、人間らしく語るということではどうだったでしょうか。彼の「舌は刃物のように鋭く人を欺く」というのです。 そして、「お前は善よりも悪を 正しい言葉よりもうそを好み/人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む」というのですから、酷(ひど)く非人間的な状態に堕ちていたのです。


表題の後半に、「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、『ダビデ』がアヒメレクの家に来た」と告げたとき」とあります。 この詩を書く時に想い起こした出来事はそれだ……ということでしょう。これは、サムエル記上21〜22章に語られていることです。 ダビデは、殺意を抱いたサウル王の魔手を避け、逃亡しましたね。そして、食べるものに困り、ノブの祭司アヒメレクを訪ね、援助を乞いました。 アヒメレクは、人間らしい想いをもって対応し、「主の御前(みまえ)から取り下げた、供えのパン」を差し出しました。ダビデは武器をも求めましたが、 そこにはダビデがペリシテ人ゴリアトから勝ち取った剣がありましたから、祭司アヒメレクはそれも提供したのでした。 しかし、「そこにはその日、サウルの家臣の一人が……とどめられていた」のです。それがエドム人ドエグでした。 彼は、「サウルに属する牧者(ぼくしゃ)のつわものであった」ということです。やがてドエグは、祭司アヒメレクがしたことをサウル王に報告しました。 そのため、サウル王は祭司アヒメレクとその関係者を呼び、詰問しました。そして、聞く耳を持たないサウル王は、 アヒメレクとその関係者全員の「死罪」を宣告し、傍らに立っていた近衛兵に、「行って主の祭司たちを殺せ」と命じました。 けれども、その家臣は、「主の祭司を討とうとはしなかった」そうです。それが、人間らしい想いというものでしょう。そこでサウル王はドエグに、 「お前が行って祭司らを討て」と命じ、ドエグはためらうことなく大虐殺をやったのでした。『聖書の人物365人』という本の中で、 著者の千代崎秀雄牧師は、次のように語っていました。「あるタイプの人間は、神経の繊細さに生まれつき欠けているようで、 普通の神経を持つ人にはとうてい耐えられないようなことを平気でやってのける。……ドエグ型の人間は、ただ<主を恐れる>ことを学ぶ時にのみ、 そういう残虐な性格が変えられうる」。……詩編の信仰者から批判された男性は、「悪事を誇る」というのですから、 人間らしく生きるという祈りはとっくに失われており、信仰の詩人は、「神はお前を打ち倒し、 永久に滅ぼされる。/お前を天幕から引き抜き/命ある者の地から根こそぎにされる。」と断罪しないわけにはいかなかったのでした。


「しかし」――10節の詩句は前の口語訳聖書では、「しかし」という言葉から始まっていました。 「(しかし)わたしは生い茂るオリーブの木。 神の家にとどまります。/世々(よよ)限りなく、 神の慈しみに依り頼みます。」と信仰の詩人は言い表したのでした。……先ほどふれたドエグの大虐殺から逃れ、 ダビデのもとに避難した人が一人いました。祭司アヒメレクの息子アビアタルでした。サムエル記上22章の終わりは、 彼に対するダビデの次のような言葉です。「わたしのもとにとどまっていなさい。恐れることはない。……わたしのもとにいれば、 あなたは安全だ」(23)。私どもに、こういう言葉を最も真実に語ることが出来るのは、父なる神さまであり、キリスト・イエスさまであり、 聖霊なる神さまなのです。ですから、生い茂るオリーブの木のようになって、「神の家にとどまります」と言い表した詩人のあり様は、 人間らしいことであり、事柄にふさわしかったのです。


「生い茂るオリーブの木」を見たことがありますか。新松田駅の近くの丘にハーブ園がありますね。そこへ行けばオリーブの木を観ることが出来ます。 ただ、とても小さな木です。福音書に出て来るゲツセマネの園の8本のオリーブの木は、樹齢1000年を超えているそうで、写真で観る幹はものすごく太く、 大きな岩のようです。オリーブの木は、根をまっすぐに3〜4mも深く下ろすので、夏の乾燥期にも地下水を吸収し、常に緑を保ち、安定の象徴だそうです。 またその栽培には、長期にわたる平和が必要なので、平和の象徴でもあるということです。あのノアの箱舟に、鳩がくわえて来た葉っぱはオリーブのそれでしたね……。 悪事を誇った男は、「根こそぎにされる」と言われましたが、生い茂るオリーブの木は、容易に引き抜かれることはないのです。 まして、世々限りなく神の家にとどまるというオリーブの木のような信仰者はしっかりと根をはり、平和や安定の象徴になるような生活が祝されるに違いないのです。


つい先日、菅 直人総理大臣が誕生しましたね。その出来事の経緯に、考えさせられるものがありました。田中真紀子元外相がA新聞の取材に応じて語ったところによると、 小沢一郎氏は田中氏に民主党代表選挙に出馬するよう求めたそうです。それに対して田中氏は、逆に、小沢氏に出馬するよう迫ったそうです。田中氏は、 「担がれたら国民に『政治を愚弄している』と思われ、政治生命が終わる』と判断したのでした。私どもは、旧約聖書の士師記9章に記されている風刺を想い起こします。 「木々が、だれかに油を注いで/自分たちの王にしようとして/まずオリーブの木に頼んだ。『王になってください。』/オリーブの木は言った。 『神と人に誉れを与える/わたしの油を捨てて/木々に向かって手を振りに/行ったりするものですか。』」(8〜9)――かつてその時代には、 神さまと隣人を愛すためにはどうしたら良いかを深く考え、事柄にふさわしい判断が出来る人がいたのです。そして、そういう人が、 オリーブの木に喩(たと)えられたのでした。


新約聖書の方では、使徒パウロが神の接木(つぎき)の教えを語っていましたね。そこでは、異邦人キリスト者が「野生のオリーブ」と表現されていました。 異邦人への伝道者として仕えたパウロ先生は、私どもがキリスト・イエスさまにあって謙遜に生き、神さまが私どもにしてくださった慈しみ深い出来事を信実に見つめ、 そうし続けるばかりの者であるよう教えたのでした。「神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、 あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないならば、あなたも切り取られるでしょう」(ローマ11:22)。どうか私どもは、 信仰の詩人の祈りの路づくりの正しさを認め、その人間らしいあり様に続く者でありますように。「わたしは生い茂るオリーブの木。 神の家にとどまります。 /世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。/あなたが計らってくださいますから/とこしえに、感謝をささげます。 /御名(みな)に望みをおきます/あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い あなたの御名に。」(10〜11)……お祈りしましょう。