渋沢教会
更新日:2010.9.10

9月5日 詩編による御言葉の説教「神さまの翼の陰」

浜崎 孝牧師
詩編57編1〜12節
コリントの信徒への手紙 一 10章13節

詩編57編にも表題があり、これは神殿の礼拝において、「滅ぼさないでください」という調べに合わせて歌われた讃美歌の一つだったということを示しています。 また、詩のモチーフは、「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき」(サムエル記上22章1節以下参照)の出来事が想い起こされたと教えています。


あなたには、「洞窟にいたとき」という体験がありますか……。私どもが子どもの頃は、家の近くに防空壕として使われたらしい洞穴が残っていて、 私にはそういう所で遊んだ体験があります。悲惨な戦争の時代、この国の多くの人は、言わば「洞窟にいたとき」という体験を持ったのです。 そして、そういう洞穴の体験は無いあなたであっても、「憐(あわ)れんでください/神よ、わたしを憐れんでください/わたしの魂はあなたを避けどころとし……ます」 (2節)と祈らずにはいられなかった体験があれば、それもまた「洞窟にいたとき」の出来事だったのではないでしょうか。「洞窟」は、英語の聖書ではcaveです。 ケイブは、「心・安全などの象徴」としても使われます。そうしてみると、私どもには案外、「洞窟にいたとき」という体験があるのです。 そして、私どもはその時をどのように過ごしたでしょうか。タビデは、「サウルを逃れて洞窟にいたとき」、意味深い信仰体験をしたのです。


ダビデは、主(しゅ)なる神さまを避けどころとすると祈りましたが、その祈りを「災いの過ぎ去るまで あなたの翼の陰を避けどころとします。」 (2)と続けました。ダビデは、洞窟内の壁を見つめているうちに、その模様とそこを支配する暗さとからでしょうか、 「ここはまるで御翼の陰のようだ……」と思いついたのです。素晴らしい感受性ですね。ダビデは詩人だったのですから、 詩情豊かなダビデであればこその閃きだったのでしょう。そして、その閃きから心の動揺は鎮まり、主ヤーウェを「わたしのために何事もしてくださる神」 (3)さまとして信頼する信仰が呼び起こされたのでした。また、ダビデは心を確かにすることが出来、希望を抱き、 主なる神さまに賛美の歌をうたいながら洞窟を出る日の準備も出来たのです。「わたしは心を確かにします。/神よ、 わたしは心を確かにして/あなたに賛美の歌をうたいます。/目覚めよ、わたしの誉れよ/目覚めよ、竪琴よ、琴よ。/わたしは曙を呼び覚まそう。」 (8〜9)――私どもがこういう詩的センスを身につけることが出来たら、私どもの信仰生活はどれほど豊かになることでしょう。実は、こうして聖書を開き、 信仰の詩を読んで行く積み重ねは、私どもの信仰生活に大きな意味を持つ詩的センスを養う営みでもあるのです。


私どもは、この会堂を地域の合唱団の練習に開放しています。その人たちがこの会堂に入って来たときの感想を聴いたことがあります。 「ああ、木の香りがしますね。」「天井が高いですね。」「明るくて、きれいですね。」……。他方、献堂式や中会(ちゅうかい)女性大会などでは、 姉妹教会の人たちの感想を聴きましたが、やはりその中には、聖書を読んで来た人であればこその感想がありました。 例えば、「ノアの箱舟みたいですね。」というのがそれです。この会堂の南側の壁には小さな窓が並んでいて、どこか舟の内部のような感じがありますね。 そして木造の礼拝堂です。皆さんも御覧になったことがあるでしょう。木造の箱舟の絵を。あのイメージに繋がったのではないでしょうか。 教会の人たちには、聖書に生きて来た人特有の感受性が養われているのです。


あのダビデの閃きも、その原因を彼の詩的センスにだけ見出すのは適切ではないと思います。聖書の中の信仰者たちには、 御翼の陰に守られているという信仰が与えられており、その恵みを想い起こして分かち合うということが行われて来たのです。 例えば申命記には、鳥の親子関係から信仰の親子関係を想いめぐらしているところがあります。 「鷲が巣を揺り動かし/雛の上を飛びかけり/羽を広げて捕らえ/翼に乗せて運ぶように/ただ主のみ、その民を導き/外国の神は彼と共にいなかった」 (32:11〜12)。またルツ記には、あのボアズが、彼の畑に落ち穂を拾いに来たルツに語りかけた次のような言葉が見出されます。 「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように」 (2:12)。――このように神の民には、主なる神さまは愛の翼を持っていらっしゃるという信仰理解を共有して来た歴史があったのです。 そして、あの洞窟におけるダビデの閃きは、多分そのことに関係して与えられたものなのです。


私どもの信仰の創始者また完成者であるイエスさまは、マタイによる福音書23:37で次のように語られました。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、 自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。 だが、お前たちは応じようとしなかった。」(ルカ13:34参照)――キリスト・イエスさまは、 旧約の神の民が分かち合って来た御翼の愛を想い起こす信仰を受け継ぐように語りかけたのでした。


そして、こういう礼拝堂でささげる主日礼拝は、御翼の陰の愛を信じる信仰を養っている出来事なのです。 詩編36:8〜9は、次のように語っていました。「神よ、慈しみはいかに貴いことか。/あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ/ あなたの家(神殿!)に滴る恵みに潤い/あなたの甘美な流れに渇きを癒す。」――この礼拝堂は明るいのですが、ここは御翼の陰であり、 礼拝者は御翼の陰に身を寄せ合う子らなのです。そして、こういう信仰理解を憶えて礼拝をささげて行く人は、 「わたしの魂は獅子の中に/火を吐く人の中に伏しています」(5a)というような状況で、信仰者にふさわしい出口の光を見出すような感受性を働かせることになるのです。 礼拝で御翼の陰に覆われる幸いを重ねて行く礼拝者は、「あなたの慈しみは大きく、天に満ち/あなたのまことは大きく、 雲を覆います。」(11)というような賛美を語る人になるのです。


今朝朗読された新約聖書のコリントの信徒への手紙 一 10:13には、「逃れる道をも備えていてくださいます」と語られていました。 「逃れる道」(エクバシス)というのは、出口のことです。ダビデは、サウルを逃れて入った暗い洞窟が御翼の陰であったことに気づく感受性を発揮し、 そこから心を確かにすることが出来、言わば新しい明日(あした)を切り拓く出口を備えられたのです。「わたしは曙を呼び覚まそう」と言ったダビデは、 洞窟で深刻にへこむことから守られ、新しい人生の始まりを祝福されたのでした。


サムエル記上24章には、ダビデは洞窟の中で主ヤーウェの信仰者らしいあり様(よう)を選んだという出来事が記されています。 思いがけずサウル王を殺す絶好の機会が訪れた洞窟の中で、ダビデは精いっぱい人間らしく振舞うことが出来たのでした。洞窟の中を御翼の陰と受け取ったダビデは、 そこで非人間的なことは選べない心境になっていたのでした。そして、そういう人が、やがて勝利者のように洞窟を出て行くのです。 「神よ、天の上に高くいまし/栄光を全地に輝かせてください。」(6、12)と祈る人は、洞窟の出口を輝く人になって出て行く者でなければなりませんね。 どうぞ、私どもも、御翼の陰の愛を信じる信仰を受け継ぎ、その信仰が私どもの「洞窟」にいるときに閃きをもたらすことを強く願ってまいりましょう。お祈りします。