渋沢教会
更新日:2011.1.20

1月16日 フィレモンへの手紙による説教『琴瑟(きんしつ)相和(あいわ)して』

古畑 和彦牧師
詩編 第31編 24〜25節
フィレモンへの手紙 1〜7節

序 手紙の背景


紀元53年、小アジアの町コロサイの郊外にある屋敷の門をたたく二人の男がいました。1人が「テキコです。今ローマから帰りました」と言いうと、 その声を聞いて門は開けられました。しかし、門番は、連れの男を一瞥すると、驚き慌てふためいて「オネシモ」と叫びながら、屋敷の中に入って行きました。 「オネシモ」、この男の名前は、この屋敷では長いこと、語ることは禁じられていました。奴隷ではありましたが、主人から大変かわいがられていたのに、 その主人を裏切り、金品を奪って、逃亡したのです。その「オネシモ」がこともあろうことか、パウロ先生の弟子テキコと一緒に帰って来たのです。 屋敷中が大騒ぎとなりました。逃走した奴隷が、捕えられたのではなく、自由意思で主人のもとに戻ってくるなどということは前代未聞なことでした。 しかし、その驚き以上に、屋敷の者には、主人のことが心配でした。奴隷制度はその時代の社会制度の支柱でした。それでもし奴隷が逃亡したりするようなことがあれば、 たとえ主人が奴隷を処罰することを欲しない場合でも、そのままにすることはできませんでした。奴隷の所有者は、 社会に対してそのような奴隷を処罰すべき責任を負っていたのです。もしも、逃亡奴隷を許すことになれば、当時のローマ社会全体を敵にまわすことになりかねませんでした。 ましてや、オネシモは主人の金品を盗んでいるのです。「心やさしい主人はどうするのか……」。屋敷の者は気が気ではありませんでした。「オネシモ帰る」の報に、 家の主人フィレモン、妻のアフィアが出てきました。事態が飲み込めずおろおろするフィレモンに、テキコは、懐から1枚の羊皮紙を取り出して渡します。 「パウロ先生から手紙です」。その一言に、屋敷は静まり返ります。そして、妻アフィアに急かされたフィレモンは手紙を読み始めます。 それが、これから皆さま方と4回にわたって学ぶフィレモンへの手紙です。


本論1 いつもと変わりなく丁寧に


フィレモンへの手紙は、新約聖書、いや聖書全体の中で、唯一の個人的な手紙です。確かに、テモテへの手紙や、 テストへの手紙といった個人名が記されている手紙がありますが、これらは最初から教会で読まれることが前提に書かれています。 それに対して、フィレモンへの手紙は、逃亡奴隷を許してほしいという全く個人的な手紙です。しかし、パウロは個人的な手紙だからと言って手を抜くことなく、 いつもと同じ丁寧さをもって、手紙の発信者の名、宛先、挨拶を書いていきます。


「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」(1、2)


この「キリスト・イエスの囚人」というとき、それは2つの意味を含んでいます。第一に、それは彼が肉体的にローマの牢獄に捕われの身となっていることをさしています。 キリスト・イエスに奉仕し、キリスト・イエスを喜び伝えていたために投獄されて囚人となったのです。ですから、パウロは恥じることなく、 むしろ昂然(こうぜん)と「キリスト・イエスの囚人パウロ」と自らを呼びます。


第二に、「キリスト・イエスの囚人」とは、彼がキリスト・イエスに捕えられ、神に奉仕する者となったという意味です。私は今、ローマ法のもとに、 官憲(かんけん)によってつながれている。しかし、しかし、私は「皇帝ネロの囚人」では決してない、と。あのダマスコ門外の遭遇以来、 私は片時もキリストの囚われ人以外の何者でもなかった、というのです。以後、このわずか全節25節の書簡に、 「キリスト・イエス」の名は11回も書き記されていきます。およそ二節に一回の割合です。パウロ書簡中でも最多率です。 いかに、彼が獄中にあってもいや獄中にあったからこそと言うべきでしょうか。 20数年来、自分をしっかりと捕らえて放さない唯一・最愛の主とともにあったかを物語るものではありませんか。 口さきだけ、筆さきだけではなかったのです。私たちも、他の何者かに囚われるのではなく、ただイエス・キリストに囚われたる者である、との自覚に燃えたいものです。


パウロは個人的な願いを持ってこの手紙を書いてはいますが、差出人に「兄弟テモテから」と付け加えています。これによって、この手紙の内容が、 いかに大切なもので、獄中に共にいるテモテたちとも話し合い祈り合っての結論であり、他の人々の賛同も得てのことであるということを暗示させています。


この手紙の主要な宛名は「フィレモン」です。しかし、宛先にフィレモンの外に、妻の「アフィア」、息子と思える「アルキポ」及び「家にある教会」が言及されています。 これは冒頭で説明したように、取り扱われている問題は、非常に困難な問題であるため、フィレモン一人に重荷を負わせることなく、家族で、 教会でともに重荷を負ってほしいとの思いからでした。


このフィレモンについては、この手紙以外のどこにもその名が出てこないので、ただ推測する以外はありません。


コロサイの住人で、しかも、奴隷がいることから見ると、物質的に豊かであり、おまけに彼の家が教会に用いられていたことからして、 非常に熱心なキリスト者であったらしいことが分かります。


また「協力者」という言葉は、「一緒になって働く」の意味の言葉ですから、フィレモンがパウロの伝道に身をもって貢献したこと、 たぶんエフェソで協力したことを思わせています。さらに、「愛する」と付け加えられているところは、彼がパウロときわめて親しかったこと、 また親しみやすい人柄だったことをうかがわせます。


しかし、ここで疑問を持つ方がいるかもしれません。なぜ、そのように信仰的に申し分のない人が、奴隷を所有しているのか。おかしいではないか。 しかし、「おかしい」と感じるのは現代的な感覚であって、当時は、社会そのものが奴隷の労働によって成り立っていました。 ですからだれも奴隷の存在を「おかしい」とは思わなかったのです。善良なフィレモンですら、問題を感じないほど、奴隷制度は社会に根をおろしていたのです。 「おかしい」と感じるようになるのは、キリスト教が広がり、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。 あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラ3・28)とのパウロの教えが知れ渡って行ってからのことでした。


3節は祝福の祈り―祝祷です。


「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」


この祝祷はほかの手紙の冒頭に掲げられているものと同じです。激烈なガラテヤの信徒への手紙にも、整然たる論文ローマの信徒への手紙にも、 はたまたきわめて個人的なフィレモンへの手紙にも。手紙が個人的なものであったとしても、彼の気持ちにおいては、少しも軽々しく考えてはいないことが分かります。 また、この短い祝祷文が、いかなる状況、いかなる相手にも適応できるだけの内容をもって、パウロに使われていたことを物語るものでもあります。 今日も、ある人には食物が、ある人には仕事が、ある人には住まいが、ある人には叱責がと、あれもこれも、いや何もかもが必要でしょう。 けれども、何よりも、まず上なる神からの「恵みと平和」が必要です。これがなくして、一切はなく、これあれば一切ありと言うべきでしょう。 この天的な注ぎを欠くとき、繁栄は腐敗と化し、成功はむしろ背教に通じ、健康は悪行に転じ、名誉は堕落に変わってしまうことを、もういやというほど、 実例を見聞きしてきた私たちではありませんか。


本論2 フィレモンに関する祈り―信仰と愛のゆえに


パウロは、手紙の中でいつも、初めの挨拶を述べてから、相手についての感謝を述べ、その信仰生活の向上のために祈ります。


「わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています」(4)


パウロは、いつも出来事の表面を見ないで、その背後にあってすべてを導かれる神を仰ぐことのできた人でした。「友」を想えば、「神」を思うのです。 「神」のみ思って、「友」を忘れるのでなく、さりとて「友」を覚えて、「神」を見失わないのです。


それにしても、祈りに覚えられて、パウロをして感謝せしめたというフィレモンは幸いでした。私たちは祈り、祈られています。友人が私を覚えて祈ってくださるとき、 その心を曇らせ、胸を悪くさせ、顔をしかめさせるのでは面目次第がありません。祈り手をして、おのずから神に感謝せしめる――そういうかたちで祈られる者であることです。 どうかフィレモン一家のように、祈ってくださる方に、「いつも」、神を賛美させる者でありますように。


フィレモンに関してパウロは、まずフィレモンの信仰と愛の業についての感謝を祈ります。


「というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです」(5)


「主イエスへの信仰は堅そうだが、どうも人づきあいに難がある。愛の香りが足りない」という人。かと思えば、逆に、 「人への愛想は溢れてこぼれるばかりだが、どうも主への信仰というバック・ボーンが危なっかしい」と言われる人があります。いずれも残念無念です。


けれども、幸いなフィレモンは、信仰も愛も兼ね備えた信仰者でした。「信仰」は主イエス・キリストに対し、 「愛」は聖徒に対して、フィレモンをタテヨコ両面から支えます。いわば、彼の人生の縦軸と横軸です。さて、私たちの人生の縦軸、横軸にあるものはなんでしょうか。


けれども、幸いなフィレモンは、信仰も愛も兼ね備えた信仰者でした。「信仰」は主イエス・キリストに対し、「愛」は聖徒に対して、 フィレモンをタテヨコ両面から支えます。いわば、彼の人生の縦軸と横軸です。さて、私たちの人生の縦軸、横軸にあるものはなんでしょうか。


本論3 フィレモンに関する祈り―さらなる信仰の成長を


続いて、パウロのフィレモンのために、さらなる信仰者としての成長を祈ります。


「わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。」(6)


パウロは、フィレモンの信仰がさらに「活発になる」ように、と祈っています。しかし、当のフィレモンは、すでに堂々たるキリスト者だったのではありませんか。 パウロ自身、フィレモンの主イエスに対する「信仰」とすべての信徒に対する「愛」については、太鼓判を押していたはずであり、 それゆえに、いつも感謝していたほどなのです。にもかかわらず、さらなる成長を祈ったのです。


人間の信仰とか愛とかは、ふとしたことで硬直し、凍結してしまうことがあるのです。特に自分自身のいまいましい思い出に触れることについては、 慈愛の心も扉を降ろし、憎しみの鬼と化してしまうものなのです。模範的なキリスト者フィレモンの信仰も、自分の内側だけではなく、 交わりの中での絶えざる成長と進歩を必要としていたのです。ましてや、私たちは……。


どうしたら、成長できるのでしょうか。「わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り」とパウロは言います。 人々の間で「キリストのためになされている」良い証しを「知る」ことは信仰を向上進歩に欠かせないというのです。そういえば、 「キリストのためになされている」よい証しが、小さな私たちの間にもなんとたくさんあることでしょうか。問題は、私たちがそれを知ろうとも、 気がつこうともしないことにあります。


本論4 フィレモンへの感謝―喜びと慰めのゆえに


パウロは、最後にフィレモンによってもたらされた喜びと慰めへの感謝の言葉を語って、この手紙の導入部分は終わります。


「兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです」(7)


パウロは、すべての信仰者たちの心が、フィレモンの信仰と愛の働きを聞くことによって「元気づけられ」たことを感謝しています。 パウロは、自分がではなく、人々が益を受けたのを、自分自身が益を受けたこととして喜んでいたのです。 私たちひとりひとりの取りに足らない信仰と愛の働きもまた同様にキリストを信ずる者にとって激励となるのです。 家庭で、職場で、教会で、そしてこの社会とこの時代にあって、信仰者としてのお互いのあり方はどうであろうか。考えさせられるところです。


ここでパウロは、私は「喜びと慰めを得ました」と記していました。ということは、パウロも獄中にあって「喜びと慰め」を必要としていたのでしょう。 何しろ五年にわたる獄窓生活は、彼の心身を弱め、圧迫していました。そんなパウロにとっては、愛する兄弟たちが信仰に堅く立ち、愛の働きをなしていると聞くことが、 なによりもの慰めであり、喜びだったのです。そうした希望と信頼とが、ここの「兄弟よ」という一語を発せしめたのではありませんか。 ギリシア語原文では、最後に来て強調され、あるいは親愛の情が示されるともに、いよいよ「逃亡奴隷オネシモ」のことを記す本論への橋渡しとなったのです。


結論 琴瑟(きんしつ)相和し


この手紙に、2種類の楽器が奏でられていることに気がつかされます。信仰という琴と、愛という瑟―大琴です。この両者を奏でた時、 その音調がよく整って両者の響きが相和し、楽しい雰囲気を醸し出すことから「琴瑟相和し」という中国の諺があります。 まさに、パウロとフィレモンが醸し出す「信仰」と「愛」の音色が、社会に響き渡るときに、奴隷制度に依存する社会は崩壊していくことになります。 雑音だらけのこの時代に私たちは、私たちの信仰と愛によってどんな音色を響かせていくのでしょうか。私たちの音色がどんなに小さくとも、相和していくとき、 そこに大きな響きとなっていくことを覚えたいと思います。この年、雑音ではなく、主イエスに喜ばれる「信仰」と「愛」響きを奏(かな)でたいと思わされます。


祈祷


ご在天の父なる神さま。尊い御名を賛美いたします。フィレモンの手紙を読み始めました。個人的な手紙にも、自らの信仰と愛を注ぎ出す、 パウロの姿に頭が下がります。そのパウロをして、その信仰と愛を評価されたフィレモンの姿にも考えさせられます。どうか、この年、 これらの先輩たちに続くもとさせてください。琴瑟などはとても無理でも、カスタネットでも、 トライアングルでも自分らしい信仰と愛の音色を響かせることができますようにしてください。 そしてその拙い音色であっても、少しでも周りの方々に慰めと喜びを与える者とお導き下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。