渋沢教会
更新日:2011.2.03

1月30日 フィレモンへの手紙による説教『今は、役立つ者となって』

古畑 和彦牧師
ヨブ記 第22章1〜10節
フィレモンへの手紙 8〜14節

序 手紙、いよいよ本論へ


紀元53年、小アジアの町コロサイの郊外にある屋敷では、この家の主人フィレモンがローマの獄中にいるパウロから来た手紙を読んでいました。 屋敷中の者が、息をひそめて、それを聞いていました。しかし、朗々と読むというわけにはいきませんでした。パウロは、目が不自由でしたから、 普段、手紙は筆記者に書かせていました。しかし、この手紙は、19節にあるように、パウロの自筆です。目が悪い上に、 ローマの牢獄の薄明かりのなかで書いたものでしたから、それは大変読みにくいものとなっていました。しかも、パウロのギリシア語は、 難解な言葉が多く、読み手を困らせました。しかし、フィレモンが朗々と読めなかったのは、それだけの理由ではありませんでした。 自分のことが記されている箇所では、言葉が詰まって、こみ上げるものを抑えなければならなかったからです。


4、5節では、「 わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。 というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、 聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです」とあり、7節では、「兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。 聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです」と記されています。


パウロ先生にそこまで言っていただけるとは何と幸いなことかと言葉が詰まります。しかし、それほどの信仰と愛が本当に自分にあるのだろうか、 と恥かしくもなってくるフィレモンでした。


この7節を読んだところで、フィレモンは大きく、息を吐き出します。実は、この7節は原文では「兄弟よ」という言葉が最後にきます。 ついに、ここからこの手紙の核心部分に入っていくのです。フィレモンは、先ほどからひれ伏している逃亡奴隷オネシモを一瞥すると、読み続けます。


本論1 懇願の源泉――愛


8、9節前半「それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします、」。


パウロは、キリストから直々に任命された使徒としての権威をもって、信仰の事柄について、信徒たちに命じることができました。 あのコリントの信徒への手紙第一やガラテヤの信徒への手紙におけるように、断固として厳命することもできます。 さらに、今回、フィレモンの「なすべきこと」ことは、「愛と信仰によって人の罪を許す」という極めて信仰的な事柄でした。 ですから、パウロは「キリストの名によって遠慮なく命じてもよい」はずでした。しかし、パウロは「愛に訴えて」解決する方式を選びます。 それは、パウロが、フィレモンの信仰と愛について聞き、またその働きによって多くの喜びと慰めを与えられていたからです。 「それで」、むずかしい問題である、奴隷オネシモの許しと解放の願いを「愛に訴えて」解決しようとしたのです。


続く 9節後半「年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが」。


パウロは、この願いをするのは、「年老いて」「囚人となっている、このパウロ」であると強調します。


本論2 懇願の内容――わたしの子オネシモ


10節 「監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです」。


ここに至って初めて「オネシモ」の名前は披露されます。日本語訳では、「オネシモ」の名前が、10節の中ほどに位置していますが、 ギリシア語原文では、最後の最後にぽつんと書かれています。まずは、「私はお願いします」というパウロみずから頭を下げて手をつきます。 そして、お願いするのは「わたしの子」のことであると切り出します。続いて、「監禁中にもうけた」であると付け加え、最後に、それが「オネシモ」であるというのです。


パウロはここで、オネシモのことを「奴隷」と言っていません。「わたしの子オネシモのこと」と言っていたのです。 それも、「わたしの子」というのが、養子や義理の子ではなくて、「監禁中にもうけた」、正真正銘、自分自身が腹を痛めて産んだ子としていたのです。 主人の家を逃亡したオネシモは、今日でも多くの逃亡者がそうであるように、大都会の雑踏の中に身を潜めました。 ところが、神はこのオネシモをローマの獄中にいる使徒パウロのところに導き、キリストの救いに与らせ、ついにはパウロに身近く仕えるまでにしたのです。 パウロは、そのオネシモを「わたしの子」と呼ぶのです。これ以上、愛情のこもった呼び方はありません。パウロは生みの親のような愛情をオネシモにいだいていたのです。


神学校で、福音書を教えて下さった先生が、福音書を映画監督なったつもりで読むということを教えて下さいました。そのことが私の聖書の読み方を一変させました。 手紙を映画化するのはなかなか大変ですが、このフィレモンへの手紙は映画化できるのではないかと思います。 これまで、カメラは、手紙を読み続けていたフィレモンに焦点を合わせていました。この10節で「オネシモ」という言葉が出た瞬間に、 この屋敷にいた者は一斉にオネシモを見ます。それにあわせて、カメラはオネシモに焦点を合わせます。そして、回想シーンになります。 大都市ローマの中を取り締まりの官憲から逃げ惑うオネシモの姿が映し出されます。追い詰められたオネシモは、ここなら安全だというので、 ローマの牢獄に逃げ込みます。そこで不思議な老人に出会います。そして、その老人の語る福音によって信仰にみちびかれます。 私なら、ここでパウロから洗礼を受けるオネシモの姿を大写しにして、回想シーンを終えます。再度、カメラは、オネシモの表情を追います。 オネシモは、パウロの「わたしの子」という言葉を聞いた瞬間、どんな表情をしたでしょうか。予想しなかった言葉に戸惑ったのではないかと思います。 しかし、続くパウロの言葉は、オネシモを歓喜させることになります。


本論3 懇願の内容――役立つ者オネシモ


11節 「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」。


ここには、パウロ流のしゃれが記されています。もともと「オネシモ」とは「役立つ者」という意味の言葉です。ところが、この「役立つ者」ときたら、 主人の金品を奪って逃走してしまったのです。「役立つ者」どころか、「役に立たない者」、むしろ「害をもたらす者」だったのです。 しかし、福音の奇跡が起こりました。今は回心して、正真正銘の「役立つ者」となったのです。しかもそれは「あなたにもわたしにも」でもです。 すべての人に対して「役立つ者」になったというのです。


オネシモは、喜びの絶頂にありました。ところが、次の言葉を聞いたとき、彼の顔は真っ青になり、がたがたと震え出したのではないかと思います。


12節 「わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。


パウロは、オネシモを「わたしの心」と言います。原文では、強調された言葉が使われていますので、「わたしの心そのもの」とした方がいいかもしれません。 フィレモンヘ「送り帰す」のは、オネシモであると、同時に、使徒パウロ自身の心だ、というのです。パウロに「わたしの子」と言われるだけでも恐縮せざるをえないのに、 まして「わたしの心」とまで言われては……。オネシモは、いよいよ頭を低く下げざるをえませんでした。もっとほかにも言いようがあったのに……。 せめて「わたしの体の一部」とか、あるいは「わたしの心の片割れ」とでも言ってくださったら……。それを「わたしの心そのもの」とは、あまりな、 あまりのことで、オネシモは手をつくばかりです。


それにしても、この言い方は、私たちに異常なほどの力を感じさせます。なぜパウロはオネシモのことをこのように呼んだのでしょうか。 1つは、この元泥棒奴隷オネシモを、生まれ変わった兄弟として、旧主人に受け入れていただくことは、 パウロの福音-キリストにあっては奴隷も自由な身分の者もなし(ガラテヤ3・28)というパウロの福音にとって、一つの象徴と考えられてからでした。 この点において、オネシモは、まさにパウロの信仰の核心を表す「心」そのものだったわけです。 さらに、パウロはオネシモの身の上に自分の分身を見たのではないかと思わされます。かつての悪事のゆえに、 兄弟たちから白い眼で見られるという境遇は、何を隠そう、元迫害者であるパウロ自身が、身をもって味わい知ったところでした。 この点、オネシモはまさにパウロの「心」でした。そんな時、自分を助けてくれた先輩バルナバの有難さを身にしみているパウロは、 いまオネシモのために労しながら、数十年前のわが姿、わが心をしのぶことがあったと思われます。


13節 「本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、」


悔い改めて今はキリスト者となったオネシモは、その名のごとく「役立つ者」となりました。「年老いて、今はまた、 キリスト・イエスの囚人となっている」パウロにとっては、そのオネシモが身近に仕えてくれることは、慰めであり、喜びでもありました。 そこで、パウロは「本当は、わたしのもとに引き止めておきたい」と願います。


ここで、パウロは、フィレモンに向かって、「あなたの代わりに仕えてもらいたい」と言っています。こう言われているところからしますと、 フィレモンは、かつてパウロとともにあったとき-たぶんエフェソと思われますが福音を伝えてくれた使徒パウロに、甲斐甲斐しく奉仕するところがあったのでしょう。 「フィレモンさん、もし、あなたがここローマにいたら、きっとあなたのことですから、福音のゆえに監禁されている私の面倒をなにか見てくださることでしょう。


ところが、今、オネシモが、そうです、あのオネシモが、あなたの代わりに奉仕してくれているのですよ」。ほかでもない泥棒奴隷が、代役をつとめてくれたというのです。 こんなシナリオを考える脚本家はいないでしょう。神が脚本家、監督の映画だからでしょう。


本論4 懇願の実現――強制ではなく、自発的に


14節 「あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです」。


今獄中にあって、みずからの手で回心に導いたオネシモの奉仕、手伝いを受けているパウロは、できたら「役立つ者」オネシモをこのまま手もとにおいておきたいと思いました。 しかし、もともとの主人であるフィレモンの「承諾」を待たなければとして、ここに「愛に訴えて」おうかがいを立てるのです。 福音のために獄につながれているパウロの今の状態からして、また使徒の権威、恩師の身分からして、 「必要上、オネシモをとどめておくことに文句はありませんね」と一方的に言うことだってできたでしょう。また、許されたでしょう。 「善いことだから、強制したってよいのだ」という理屈も通ったでしょう。たぶん、フィレモンは反対するはずはなく、むしろ「お願いですから、 私の代理として、オネシモをいつまでもお役に立ててください」と言ってくるに違いありません。それでも、このままオネシモを手もとに置いておくことは、 フィレモンに押しつける恰好になる、フィレモンの気持ちを傷つけることになってしまう。フィレモンのせっかくの親切が、強制されたからという形になってしまう。 そう考えて、「役立つ者」オネシモをフィレモンのところに「送り帰す」のです。私たちは、せっかく相手が自発的にしようとしていることを、 強制のかたちでさせてしまわないように気をつけなければなりません。残念ながら、「信仰」を言い訳に、非常識、無礼、無作法な人がいます。 この一節にこめられた、こまやかな配慮、心遣いを染み込ませたいものです。私たちも、「主よ、私にも、このけじめと、優しい細やかさを与えてください」と祈りたいものです。


結論 今は、役立つ者となって


今日は、「役に立たない者」オネシモが役立つ者となったという出来事を見てきました。しかし、ふと、いったい何の役に立ったのか、と思います。 生まれながらの奴隷ですから、教育は受けていません。常識も、礼儀、作法も教えられてはいなかったでしょう。自信があるのは体力だけだったかも知れません。 信仰にしても、パウロから直々に教えを受けたと言っても、パウロとともにいるテモテなどと比べたら、とてもパウロの役に立つたとは思えません。 ましてや、神の役立つ人間になったとはとても思えません。ヨブ記において、友人テマン人エリファズはヨブに向かって、「人間が神にとって有益でありえようか。 賢い人でさえ、有益でありえようか。あなたが正しいからといって全能者が喜び/完全な道を歩むからといって/神の利益になるだろうか」 (22・1、2)と否定的なことを言いました。そうです。オネシモだけでなく、人は神の役立つ者になること無理なのです。


現代は、人間が役立つか立たないかで判断される時代です。役に立たないと判断されるやいなや、捨てられていくそんな時代です。 パウロはその意味で「役立つ」という言葉を使っているのではありません。オネシモが、パウロの命懸けのとりなしで、役立つ者とされたように、 主イエスの十字架の贖いによって、私たち一人一人も神にとってなくてはならない役立つ者とされたのです。私たちは、たとえ何ができなくとも、 存在そのものが、役立つ人間なのです。


祈祷


ご在天の父なる神さま。尊い御名を賛美いたします。自分は、神と隣人にとって役立つ人間かと自問しますと、役立つどころか、 ご迷惑ばかりかけている者であることを思わされます。それなのに、すぐに高慢になり「愛に訴えて」ことを図るよりは、「信仰」を言い訳に、 非常識、無礼、無作法をしてしまうことをあります。キリスト・イエスから直々に権限をいただいているにもかかわらず、どこまでも謙遜であり続けるパウロの姿に、 役立つ人間とはこのようなものかと思わされます。しかし、神は、キリストの十字架の贖いのゆえに、私たちを何かができるから役立つというのではなく、 存在そのものを喜んでくださっていると知り、感謝で一杯です。だからこそ、私ができる精一杯のことをもって、隣人に、家族に、社会に、 役立つ人間としての生き方をさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。