渋沢教会
更新日:2011.5.28

5月22日 御言葉の説教「祈って変わるあなたの人生」

大井 啓太郎牧師
出エジ17章8〜13節
Tヨハネ5章13〜21節

1.起・挨拶


おはようございます。今朝もこのように主の前に集うことができたことを心から感謝して、どうぞお近くの方と握手をもってご挨拶ください。


さて、先週は中会女性の集いというものがありました。年に一回ある、日本中会最大イベントなんですが、 日本の伝統芸能である講談を用いて伝道している神田ナザレ牧師のお話を聞くことができました。何が素晴らしかったといえば、 原稿を見ないで全部覚えて話されていた!すごかったです。たとえばアダムからアブラハムの系図を一気に話す。きっとコツもあるのでしょうが、 それ以上に努力と練習をされたのだなあとおもいました。私も!と思ったのですが、早々まねしてできるモノではありません。 また、私はどうも集中することが苦手なようです。いろいろなことが気になってしまう。そういえば通信簿に落ち着きがないと書かれていました。 いろいろなことに気がつくという良い面にもなるのですが、他のことを忘れて一つのことに集中するということがなかなかできません。 聖書の登場人物なら、イエス様の話を一生懸命聞くマリアではなく、別のことが気になるマルタタイプです。それでも、今日死んでも、 言い残したことはないと思えるようにメッセージを語りたいと思いました。また、聖書以外に一つの取り柄というか、得意分野をもつことが大事だと思いました。 神田先生のようにそれが伝道に生かされるんだなと思いました。音楽だったり、料理だったり、野菜作りだったり、メカだったり、コンピュータだったり、 なんでもいいのです。私は実は、渋沢に赴任してひそかに楽しみにしていたことがありました。それは魚釣りです。 浮きづりぐらいしかしたことのない全くの初心者なのですが、先週の月曜の朝、二ノ宮の堤防に行きました。 結果は小さなサバ数匹でしたが、気前よく釣った魚をくれる人がいて、から揚げにして食べました。本当でしたらアジぐらい釣って、 さばいて刺身にと思って、わざわざお店でアジを買ってさばく練習までしたのですが。アジが出る伝道にまで用いられるにはまだまだですが、 もう少し上達したら、教会に来ていらっしゃらないご主人など、どなたかといっしょに行くことができ、 交わりを深める中で教会にお誘いできるようになればと願っています。好きなことが伝道に生きてくるのです。


2.モーセの場合


さて、今日読んでいただいた出エジプト記の主人公モーセも、当初、神様からイスラエルの人々をエジプトから連れ出す使命を与えられた時、 自分にはそんな能力はありません、「ああ、主よ、どうぞ他の人を見つけてお遣わしください」(4:13)と、頑なに断った人でした。取り柄がないどころか、 彼はエジプトから逃げ出していたのです。そしてもう一つ、ファラオの前に進み出た時、モーセの年は80歳、モーセの兄アロンも83歳だったのです。 もっと別の元気な人がいるでしょうと、モーセでなくとも言いたくなります。しかし、神様はすべてを知っていて、彼にその使命を託されたのです。 彼の欠点は、すべて長所となりました。自信のなさは自分の力でなく、神様を頼ることにつながりました。年をとったことも、 尊敬されることやお年寄りや子どもの歩くスピードに合わせることにもつながったでしょう。長く羊の群を飼う生活も、 荒野の気候や危険を知ることにつながったでしょう。何より王宮で暮らして、ファラオとは面識があり、謁見できたのです。 神様はそのようにして、彼を用いたのでした。そして彼はイスラエルの民を約束の地カナンへと導きました。今日与えられている旧約聖書の箇所は、 その途上、モーセとイスラエルの人々がアマレクという異民族と戦ったことが記されています。この場所の名前はレフィディム、 この地名を聞いて何か思い出しませんか?そう、前の水曜祈祷会の名前です。M崎先生は祈祷会の名前にこの土地の名前をつけていました。 この戦いのとき、モーセは、アロンとフルと共に丘の頂に登り、手を挙げて祈っていたのです。手を挙げている間は、イスラエルが優勢になり、 手を下げると不利になったのです。そこでアロンとフルが手を支えた結果、アマレクに勝ったのでした。レフィディムは、祈りによって勝利した土地の名前だったのです。


3.祈りによって変わること


このように、先ほど子どもたちにも話しましたが、祈りによって状況が変わることがあるのです。世界的な宇宙物理学者スティーブン・ホーキング博士は、 最近「天国も来世も存在しない」と語ったそうですが、先週もお話ししましたが、この世界は見えない何かによってできていると、科学が説明しだしているのですし、 実際祈りだしてみなければ、その素晴らしさは知ることはできません。また、神様を身近に感じながら生きるのと、 生きないのとでは私たちの行動倫理は大きく変わってしまうのです。


神様を感じれば、悪いことはそうそうできません。逆に良いことをしようという気持ちにもなります。また、思いもつかなかったことを思いつくこともあります。 できないとしり込みしていたことにチャレンジする勇気が与えられるのです。


では、そもそも祈りとは何でしょうか?そもそも祈るという行為はどうして「いのる」という言葉なのでしょうか?


英語では祈りは「プレイpray」といいます。遊ぶという「プレイplay」と似ていることも意味があると思うのですが、祈りというのは、私が調べたところでは、 「い」と「のる」に分けられ、「い」は命とか息を表し、「のる」は祝福の言葉「祝詞」の「のり」だそうです。 すなわち、命を祝福するということが日本語の「祈り」の要素なのです。また、漢字では、示すへんに、斤と書いて祈るという漢字ですが、 祈る姿からという説明もありましたが、神様がくれた武器・道具ということも言えます。このように祈りとは、信仰者にとって、生きていることの証でもあり、 この世を生き抜く神様がくれた大切な武器・道具なのです。


4.祈りの要素


そしてそのお祈りには、5つの要素があると言われますが、なんだかご存知ですか?例えば、「〜さん、お祈りしてください。」と頼みますと、 「当てないで〜」とお願いのお祈りをしだします。そして、誰かが当たると、あてられなかった人は「アー良かった」と思って神様に賛美と感謝をします。 そして、当てられた人に対して、「お気の毒」と思ってとりなしの祈りをします。そして、後からあの時「ドキドキしたわ」と罪の告白をするのです。 ちょっと、冗談のように申しましたが、祈りには「願い・感謝・賛美・とりなし・罪の告白」が含まれています。しかし、往々にして私たちの祈りは、 お願い中心の祈りになりがちです。皆さんが神様だったらお願いばかりされたら辟易してしまうと思うのです。祈りは大切な武器・道具と申し上げましたが、 それは、神様との大切な対話の道具でもあるのです。イエス様は、私たちに祈る時はこうしなさいと教えられました。(マタイ6:5-8)


・偽善者たちのように人に見てもらおうとせず、祈る


・異邦人のようにくどくどと祈るな。


・あなた方の父は願う前から、あなた方に必要なものはご存知です。


主イエス様はこの後に、主の祈りを弟子たちに教えられました。すべて、神様はご存じだけれども、神様は私たちと話したいために、人格的に触れ合いたいために、 祈ることを私たちに求めています。


しかし、神様を信じていない人は言うのです。「祈っても何も変わらないじゃないか」と。


私は小さい頃、ジャイアンツの黒い帽子がほしかったのです。みんなかぶっていました。そこでお祈りしました。すると母親が買ってきたのは、 青のドラゴンズの帽子でした。「このほうが涼しそうだったから」が答えでした。今でも忘れられない思い出ですが、神様はほしいものが分からないのではありません。 願いとは違う答えが返ってきたとしても、それは私たちにとって「ほしいものではなく」、「必要なもの」なのです。大金持ちになることがその人に本当に必要で、 それが神様のご用のためになるのなら、きっと祝福して下さるでしょうし、そのことで堕落するようだったら、その祈りは聞かれないのです。 まず、神の国と神の義を求めれば、必要なものはすべて添えて与えられるのです。今日読んでいただいた新約聖書ヨハネの手紙1 もまた、と記しています。


5.最後に 祈りの点検を


私たちは、聞き入れられるような祈りをしているでしょうか?また、 人生が変わるほど祈っているでしょうか?罪を犯して苦しんでいる人に対してもとりなしの祈りをささげているでしょうか?


私たちは「神の掟」に生きるよう勧められています。すなわち互いに愛し合うということです。神は愛であり、 その愛はイエス・キリストの罪のあがないという形で私たちに示されたのです。私たちは神に愛されているのです。 私たちは私たちを愛してくださっている神様と語り合う、それが祈りなのです。祈りなくして愛しているとはいえません。 神様・夫・妻・子ども・父・母・兄弟・親戚・隣人、そして敵も。何か関係に問題があるなら、どうか祈りだしてみてください。祈りなくして問題の解決はありません。


もちろん、すぐに解決されるとは限りません。ここから本当の意味で人生の戦いが始まるのです。なぜなら「愛する事」は生易しい事ではないからです。 相手よりも自分中心の姿が見えてきます。そのような自分のありさまを見ると永遠の命になどあずかる資格がないように思えます。 しかし、だからこそ主イエス・キリストは来られたのであり、私たちは教会という体の一部に連なることで互いに、互いの足りない点を認め合い、 愛し合うことを学び、体験してゆくのです。祈りの豊かさ・力強さをさらに知るものとなりましょう。