渋沢教会
更新日:2011.10.2

9月25日 御言葉の説教「神の国のたとえG〜忠実に生きる」

大井 啓太郎牧師
ヨブ記42:1〜6
マタイ25:14〜30

1.序 挨拶


おはようございます。今日は愛する皆様と、創立記念礼拝、また召天者記念礼拝をおささげできますことを心から感謝しています。 週報にも書きましたが、渋沢教会は、今年54周年を迎えました。渋沢教会の50周年記念誌を改めて読みましたが、吉崎忠雄牧師から始まって、 小林八郎先生・舘岡剛先生・柳瀬仲司先生・M崎孝先生、そしてこの者と、牧会・宣教のバトンが渡され続けられました。しかし、そのバトンは、 牧師一人が受け取ったのではなく、皆さん一人一人が受け取ってこられたものです。無牧となった時には、それこそ、牧師の代わりに、みなさんが、 そのバトンをもって走られました。市川姉が書いておられましたが、山岸長老宅の家庭集会から始まり、土地が与えられ、前の礼拝堂を建てるときには、 フォレスター宣教師が指導して、額に汗して皆が手伝ったそうです。草創期を直接知る人は年々少なくなりますが、その思いを私たちは受け継がなければならないのです。 このようなことを考えていますと、私は決まって「野のユリ」という古い映画を思い出すのです。 この作品で黒人で初めてアカデミー主演男優賞を受賞したシドニー・ポワチエが主演した映画なのですが、 その映画も、教会がない所に教会を建てるという物語でした。最初は一人で建設しようと悪戦苦闘するのですが、 そのうち、皆が協力して、礼拝堂を建て上げていくというストーリーなのですが、音楽もよく、楽しいクリスチャンでなくともお勧めの映画です。 一人一人が自分に与えられているものを分かち合いながら教会を建て、支えるという喜びが溢れていました。私たちも、そのような喜びも受け継いでいきたいと思うのです。


また、同時に今日は先に天に帰られた方々のことを想い、感謝の想いを新たにするための召天者記念の礼拝でもあります。主なる神様が、 親として子として、また主にある兄弟姉妹としての絆を与えてくださり、人生の大切な時間を共に過ごすことができたことを感謝する。 と同時に、天の国での再会を確認するのです。悲しみの「サヨウナラ」ではなく、希望の「マタネ」を確認するのです。


それではこの朝も、主の前に共に集うことができたことを感謝して、お近くの方同士「平和があるように」といって握手してご挨拶ください。 平和はヘブル語で「シャローム」、ギリシャ語では「エイレーネー」といいますので、それで言ってくださっても構いません。 遠くから来られた方には「エレーネー」とねぎらってあげてください。それではどうぞ。


2.タラントンのたとえ


さて、私たちは連続して、主イエス様がお話しくださった、神の国のたとえをマタイ福音書から学んでまいりました。来週で最後になるのですが、 今日与えられた「タラントンのたとえ」は、イエス様のたとえの中でも、特に有名なたとえです。


ある人が旅に出かける前に、3人の僕に自分の財産を預けるのです。ある僕には5タラントン、別の僕には2タラントン、 そしてもう一人には1タラントンを預けて遠い旅に出ました。主人がいない間、5タラントンと2タラントン預かった人は、 商売をして預かった分と同じ額のタラントンを儲けました。しかし、1タラントン預かった僕はというと、穴を掘ってそれを埋めて隠してしまったのでした。 主人が帰ってきた時に、儲けた二人は忠実な僕とほめられ、さらに多くの物を管理する権限が与えられ、土の中に隠しておいた僕は、怠け者の悪い僕と叱られ、 外の暗闇に放り出されてしまう、というのがこのたとえのあらすじです。


この主イエス様が語られたたとえは、まず第一に、神様から与えられる賜物は人それぞれに違うということを私たちに語ります。


タラントンというのは、もともとは、ギリシャの通貨の単位で6,000ドラクメと同等の価値があるものでした。ドラクメというのは、 労働者が一日働いて得られる金額デナリオンと等価でしたので、つまり6,000日働いて得られる金額がタラントンということになります。 1年300日働いたとすれば、20年分の労働対価となります。転じて一生で得られるほどの金額を表す意味となり、 その人に与えられた才能とか能力という意味になりました。英語のタレントという言葉はこのタラントンが語源です。 ですから私たちは、それぞれ神様から少なくとも1タラントンが与えられているのです。しかし私たちはすぐに、なぜこのような違いがあるのか、 不思議に思いますし、多く才能や能力を与えられた者に対してやっかみや妬みの思いすら湧いてきてしまうのです。 私などは「もっとイケメンだったら」とか「もっとお金持ちの家に生まれていれば」というようなどうしようもないことを、 今も心の片隅に置きっぱなしにしてしまっているのですが、神様はそれぞれに応じて与えられているというのです。ですから、 そのことによって他人を羨むのは間違いなのです。そして、人間の賜物は本来、隣人に仕え、教会の徳を高めるために使われるものであって、 それを持つものの栄光を表すものではありません。神に栄光を帰すために、賜物があるのです。


また、タラントンを貨幣単位と言いましたが、これを重さで考えると、また、別の意味が見えてくると思うのです。多く与えられているものは、それだけ重いのです。 大変なのです。それは責任ということにもつながるのです。さきほど子どもたちに話したダビデとゴリアテの話の中で、 ダビデはサウル王から重いよろいと剣を貸し与えられましたが、それでは身動きができず、脱いで普段のままで戦いました。 自分の身の丈に合ったものを神様はタラントンとして与えてくれているのです。


また、賜物を持つと言っても、自分のものではなくて、必ず神様にお返しするべきものなのですから、 私たちは自分のようなものにもこんなにも多くの賜物が任されていることを喜び、その賜物を生かすことに忠実であるべきなのです。


第2に教えられること、それは私たちは与えられた賜物のうちいくつかを用いて、他のいくつかは温存しておくというようなことを考えがちです。 5タラントンであれば、3タラントンを使って後の2タラントンをとっておくというふうに。しかし、それは、後で見る「悪い僕」のすることなのです。 み言葉には良い僕たちは「さっそく」商売を始めたと書かれています。全ての賜物を生かし、 その全ての結果をかの日に神様のみ前に差し出す(20節)ことが忠実な僕のあるべき姿です。 しかし、そのようにして、もし大損害を出したなら、このたとえはどうなるのだろうか、主人である神様は、 どう僕である私たちに語られるのだろうか、と考えてしまうのです。私たちは失敗が多いからです。もちろん、 それはこのたとえからは分かりません。しかし、結果を恐れ、土に埋めて何もしなかった僕よりは、ほめてもらえるのではないかと思うのです。


3.最後に


悪い僕は直接的には律法学者や、ファリサイ派の人々のことを指していました。彼らは律法を守るため「律法の周りに垣をめぐらす」ことに躍起になっていました。 律法をわずかでも変えたり、少しでも付け加えることで呪いをうけることを恐れるあまり、真理を曇らせ、新しいもの・正しいものまで排斥する結果となっていた彼らを、 主イエス様は「主人を怖がって1タラントンを土に埋めてしまった悪い僕」にたとえたのでした。しかし、私たちもまた、 せっかく神様から素晴らしいタラントンをいただいているにもかかわらず、ないもののようにしているとしたなら、それはやはり悪い僕と同じなのです。 賜物の忠実な管理とは、繰り返しになりますが、それを生かすことです。神様から「悪い僕」と言われないように、賜物を輝かせましょう。