渋沢教会
更新日:2011.10.8

10月2日 御言葉の説教「神の国のたとえH〜たとえの終わり」

大井 啓太郎牧師
イザヤ58:6〜14
マタイ25:31〜46

 

私たちは8回にわたって神の国のたとえをマタイ福音書から学んでまいりました。種や土の中の宝、子ども、仕事にありつけたぶどう園の農夫、空返事した息子、婚礼と、 締め出しを食った乙女たち、タラントンを預かった僕…。もし、私たちが何の準備もなく、永遠の命を得て神の国に入れるのでしたら、神様はイエス様を遣わす必要はなく、 「光あれ」と言われたその言葉か、何らかの手段ですぐに入れるようにしてくださるでしょう。しかし神様は、御子主イエス様を送るしかなかったのです。 天使や預言者や他のどのような方法を用いても十分ではなかったし、失敗だったのです。それほど私たちの罪は重かったのです。 さらに、ただ主が来られるだけではだめでした。主イエス様が、私たちの的外れな生き方を、悔い改めさせ、神の国とはこのような所だということを知らせ、 神の国の生き方を身につけさせるために、教え、癒し、そして、たとえを語られたのでした。

そのような神の国のたとえも終わり、主が再びやって来られるその情景が述べられているのが今日与えられている箇所です。主は、31節「栄光に輝いて、栄光の座」に着き、 32節「全ての国の民が、羊飼いが羊と山羊を分けるように」より分けるというのです。主が右と左とに分けて、その後に、 主がそれぞれにふさわしい世界を与えられると宣言されるのです。

この違いは何でしょうか?それは、人生の中で実際に善き行いをしたかどうかなのです。確かに、どんな善行をもってしても人間の罪の贖いにはなりえず、 その意味では、主イエスを信じる「信仰による義」のほかに救いの道はないのです。しかし、主は「はっきり言っておく。このもっとも小さい者のひとりにしなかったのは、 私にしてくれなかったことなのである」と言われます。たとえ、主イエス信じていると言っていたとしても、それが実際の生活で実践されていなかったら、 それは無いに等しいのです。小さな者にする行いこそ私に対する信仰だ、と主は語るのです。信仰と行いは分けて考えるべきものではなく一つなのです。