渋沢教会
更新日:2011.11.22

10月30日 御言葉の説教「主よ、来てくださいB 病の中で」

大井 啓太郎牧師
詩編38:1〜23
ルカ4:38〜44

1.あいさつ


おはようございます。今日は10月最後の日曜日です。だいぶ朝夕冷え込んできました。我が家も、私がボランティアに行っている間にこたつを出していました。 どうか、風邪など召されませんように。また、先週は、友愛セールが持たれました。本当にお疲れさまでした。わたしは、綿菓子を担当しましたが、 もう少し修業が必要だと思いました。来年はもう少しふんわりと大きい物を作りたいと思います。


では、今日もお近くの方と平和の挨拶をいたしましょう。「平和があるように」といって握手してご挨拶ください。 平和はヘブル語で「シャローム」、ギリシャ語では「エイレーネー」遠くから来られた方には「エレーネー」とねぎらってあげてください。それではどうぞ。


2.人と病


さて、争い・貧困と社会問題を考えてきたこの月ですが、人間にとって、もっとも恐るべき事柄、それは病気だと思うのです。 私は、小さい時、小児ぜんそくを持っていましたので、気温が急激に変わる季節の変わり目になると、決まって発作が起きました。 今のようにすぐ効く薬もありませんでしたから、一晩中、肩で息をしながら呼吸困難な状態で過ごしました。 子ども心にこのまま息ができなくなって死んでしまうのではないか、そんな風にも思いました。 また、発作が怖くて体育も休みがちになり、性格も消極的になったように思います。ぜんそくという病気がなかったら、かけっこでビリになる回数も減って、 もっと活発な子どもになったと思います。事実、病気は人生を変えてしまいます。病気は絆を断ち、人を孤独にします。それまでの予定をすべて台無しにしてしまうのです。 その孤独の究極の形が、死です。先日私たちは召天者記念礼拝を捧げましたが、誰もが、病気さえなかったらと思い、病気を恐れるのです。 科学はこの恐怖を克服しようと様々な薬を開発してきましたが、一つの薬が完成しても、又その薬に抵抗力を持つ菌が出現したり、 変異が起こるなどして、人類はその恐怖から逃れることができていません。これからもきっとできないでしょう。


そのような大病でなくとも、今、この時も人には言えない、理解してもらえない病と孤独に闘っておられる、兄弟姉妹もおられることだと思います。 そして、一番深刻なこと、それは神を疑い、「神に見捨てられた」と神に失望するということなのです。


石井という牧師は、「祈れない日のために」という本の中でこんな祈りの言葉を書いています。 「神様なぜ人は苦しまねばならないのですか なぜ憎しみを持つのですかなぜ裏切られる痛みがあるのですか  なぜ病苦があるのですか なぜ不慮の事故に遭うのですか なぜ私だけがひどい目に遭うのですか」これらの言葉は、人間の真実の叫びだと思うのです。


3.主イエスと病気


そのような人間社会の縮図でもある聖書には、やはり数え切れないほど、病に苦しむ人々が登場します。ある者は目が見えず、ある者は、 むごたらしい重い皮膚病に苦しむ人が出てきます。先ほど読んでいただいた詩編38編には、ダビデの詩とされていますが、この詩の作者は、 本当に苦しい中でぎりぎりの信仰をたもっている、その心からの呻きが記されています。もう一度読んでみましょう。 また、ヨブ記の主人公ヨブは試みられて家族や財産、そして健康まで奪われ、神と対峙するのです。


そのような私たちに対して、御子主イエス・キリストは「それはあなたが悪いからだ」とはおっしゃいませんでした。主は、人の痛みをいやすために来てくださったのです。


今日、読んでいただいたルカによる福音書にはおびただしい人々が、主によって癒されたことが記されていました。


今日の聖書には、シモン・ペトロの家にイエス様が行き、その姑を癒した記事が記されています。ここから、シモン・ペトロが結婚していたことがわかり、 たぶん一番の年長者で、12弟子たちのリーダーになっていったことがわかるのですが、私たちが注目したいのは、 イエス様が「一人ひとりに手を置いていやされた」と記されていることです。イエス様は、神の子ですばらしい力をお持ちなのだから、 みんないっぺんに病を治してしまえばいいのに、と思ってしまうのですが、イエス様は「一人ひとり」手を置かれ癒されるのです。 私たちのさまざまな悩み・苦しみをひとつひとつ丁寧に人格的な交わりの中で、癒されるのです。病で12年苦しんでいた女性が、 衣に触れて癒された、あの時も、主は人格的な交わりを求めて、「私に触れたのは誰ですか」と言われました。今日の聖書には病人の言葉は記されていませんが、 イエス様はきっと優しく・希望に満ちた言葉を一人ひとりにかけておられたと思うのです。


そして何より主が回復したかったもの、それは、主なる神様との関係の回復だったのです。主イエス様の本当の救いは、「罪」からの解放でした。 病は一時のものです。しかし、神との関係は永遠につながる事柄なのです。


事実、病の痛みは苦しい物ですが、神様との関係がしっかりと保たれていれば、病の中にあっても讃美歌を歌い、喜ぶことができるのです。 先ほど紹介した石井牧師の祈りには、実は次のような言葉が続くのです。「なぜなぜと問い続けて言っても何も答えのない暗い日々がありました。 中略私の人生のすべてに、神の支配と摂理のあることを知りました。 どんなこの世の不幸も神の愛から離れさせることは絶対にないのだという神の約束を信じて生きられるようになりました。」私も多くの方の病床の傍らで、 そのことを知ったのです。神の約束を信じる者にとって、病や死は絶対のものではなくなるのです。


4.私たちへの適用


私たちには、死に勝利された主イエス・キリストがおられます。苦しい時、悲しい時こそ、主を呼び求めましょう。