渋沢教会
更新日:2012.2.18

1月15日 御言葉の説教「心のタンクは満タンですか」

大井 啓太郎牧師
詩編21:9〜14
テサロニケ1 2:13〜16

1.挨拶


おはようございます。毎日寒い日が続いています。寒いと動くこともおっくうになります。私は、健康のために、ウォーキングでもしようかと思ってはいるのですが、 この寒さで風邪でも引いたら大変と、なかなかスタートが切れずにいます。しかし、考えてみると動物も冬眠をしますから、 活動が鈍ることが生き物としての人間の自然な姿なのでしょう。寒い冬があるからこそ、春の訪れが、待ち遠しくなるのです。 そのように考えると、私たちにとって真冬のような辛く、悲しい出来事にも、希望を見出すことができるのです。


それでは、今日もこうして週の初めに神の家族の元に戻ってくる事ができたことを感謝して、お近くの方同士、 「シャローム」「エイレーネー」「エレーネー」と握手をもってご挨拶ください。どうぞ。


2.逃げて


さて、先週広島で、刑務所の脱走事件が起きました。犯人は、警備の盲点を突いて54時間逃走したのです。しかし、途中で空き巣をしたりしたために、 足取りが分かってしまい、発見されたということでした。その時の所持金は10円で、何も食べていないと語ったそうです。この寒い時期、 何が彼をそうさせたのか、それ以前になぜ彼は、犯罪者としての人生をおくることになったのか、考えさせられました。彼の逃走する姿を思うと、 人類が神に罪を犯し、楽園のエデンの園から追放され、罪を犯しながら生きてきた姿に重なるように思いました。神の前に自らの姿を隠し、 逃げてしまう。また、それは17年間逃走し、年末に自首した、あのオウム真理教の信者にもいえます。17年間、人の目を避け捕まりませんでしたが、 そのようにして生きることのむなしさを、東日本大震災によって感じ、自首したのです。この二人に共通すること、それは「むなしさ」ではないでしょうか。


3.み言葉から


今日与えられている聖書箇所は、先週、使徒パウロが「わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、 自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛するものとなったからです。」と語られたテサロニケの人々の信仰をほめている箇所です。 13節「」人の言葉ではなく、神の言葉として受け入れたことを、使徒パウロは心から喜んでいるのです。今日の箇所ではありませんが、続く19節20節では、 「」救われたあなた方だけが、「私たちの誉れ、私たちの喜びである」と記しているのです。


では、テサロニケの人々が示した信仰とは何だったのでしょうか?それは、14節以降に記されていますが、彼らは大きな迫害に遭いました。 キリスト教の教えは、当時のユダヤ教側からみれば、許し難い、律法の違反だったのです。先日TVで、池上彰という人の番組で、 世界のニュースを知るために宗教を知る必要があるという特集をして、ユダヤ教や、キリスト教のことが紹介されていました。 私が興味を持ったのは、ユダヤ教の人々の生活でした。彼らは金曜日の夕方から、次の日の夕方までを安息日として、一切の労働をしないのですが、 電気のスイッチを押すことすらも労働としているのです。主イエス様が生きた時代、もちろん電気スイッチなどは存在しませんが、生活のあらゆるところに、 このような行きすぎた教えがあったのです。主イエス様は、安息日の主は人であるとして、良いことをするならば、それは神様の喜ぶことだと教え、 その教えを受け入れた人々が最初のクリスチャンたちだったのです。しかし、それは殺されてしまうほどの危険なことだったのです。 また、キリストの教えは、それほどユダヤ教にしてみれば脅威的な教えだったのです。


使徒パウロはそのユダヤ教のエリートでした。しかし、パウロ自身がダマスコ途上で経験した、迫害していたイエス様との出会いによって、自分自身の、 そしてそれまでの教えの愚かさを痛感したのでありました。


4.心のタンクは満タンですか?


彼は、しかし、迫害に屈することなく伝道しました。教えを守り続けました。そのエネルギーの源、それは、「神の言葉」です。 私たちの本当の生きる力は神の言葉なのです。私たちは神様の目に全然いい所なしの人間です。逃げ回ってきた人間です。 しかし神様は、主イエス様という独り子でありまた、神様ご自身によって救って下さり、わたしたちは逃げるのをやめたのです。 何よりも、自分の愚かさを知るという事は、真に人を愛することの初めであり、神の偉大な業を知るという事にもつながるのです。


私たちの心が、神の言葉に満たされている時、私たちは本当に生きることができるのです。


5.最後に


17節 パウロは2章7節で「幼子のようになった」、また「母親のように」11節では「父親のように」と書いてその情愛を表現しましたが、 この17節でも、新共同訳では「引き離されていた」と訳されていますが、もとのギリシャ語では「孤児にされている」という言葉が使われています。 別の訳では、「みなしごのようにされて」とあります。単に離れているというのではなく、 「母を訪ねて3千里」のマルコ少年のような本当に会いたくて会いたくて仕方ない、そのような状態にあると、 パウロはいうのです。主なる神様も私たちをそのように思っておられます。み言葉にいきましょう。