渋沢教会
更新日:2012.2.26

2月19日 御言葉の説教「命は甦る!」

大井 啓太郎牧師
ダニエル記7:11〜14
テサロニケ1 4:13〜18

1.序 挨拶


おはようございます。今日も寒いですが素晴らしい朝を迎えました。週報にも書きましたが、今週は灰の水曜日があり受難節に入ります。 受難節はレントとか、四旬節とも呼ばれます。レントは古い英語で、春という意味です。四旬節は、文字通り「四十日間の季節」ということになります。 これはイエスさまが宣教生活に入られる前に、荒れ野に退き、四十日間、祈りと断食を行った(マタイ4・2)ことにならって設けられた、祈りと断食の季節です。 40という数字は、荒野での断食や、ノアの洪水の日数、出エジプトの年数、モーセの断食など象徴的な数字です。ですから最初の日の「灰の水曜日」には、 悔い改める印として、灰を額に付けました。復活祭を心から祝うために、ローマの教会に、このような四十日の準備期間が導入されたのは、 四世紀の後半であると言われています。またこの期間は、復活祭に洗礼を受ける志願者のための最終的な準備の段階に当てられてきました。 日本ではクリスマスのほうがキリスト教の祭りとしては一般的ですが、主イエス様が復活されたことを祝うイースターこそ、キリスト教の本質的な祭りであり、 事実一番古くから祝われてきたのです。今度の水曜日は、額に灰をつけるような特に変わったことをしませんが、是非祈祷会にも足をお運びください。 それでは、今日も主の前に集えたことを感謝して、お近くの方とご挨拶ください。平和という意味のギリシャ語の「エイレーネー」へブル語の「シャローム」、 遠くから来られている方には「エレーネー」と握手してご挨拶ください。それでは、どうぞ。


2.聖書から


さて、テサロニケの人々の間で、ある問題が起こっていました。それは、前回のテサロニケ信徒への手紙1の4:9から12節で書かれていたように、 再臨についての理解の違いでありました。15節で明らかなように使徒パウロ自身も、主が再び来てくださる日が近いと思っていたぐらいでしたから、 初代教会の人々の多くもまた、主はすぐ来てくださるというその信仰を持っていました。あるものは明日にでも、キリストは来られると熱狂的に信じておりました。 その信仰が仕事をせずにただ再臨を待ち望む、ひとことでいうなら賛美と祈りには熱心だが、生活のバランスを欠いた、ぐうたらなキリスト者を生み出すことになりました。 そのことを11節で、落ち着いた生活をするようにと、使徒パウロはテサロニケの人々に勧めたのでありました。


そして、主が再び来られる時、テサロニケの人々が真剣に論じ合ったもう一つの大きな問題がありました。 それはすでに死という罪の鎖に繋がれた人々の救いについてどうなるのか、ということでありました。イエス様は天に昇られた。 そして再び戻ってくる。その時、生きているものはイエス様のみ顔に接することができるが、死んだもの、肉体が滅び、土に帰ってしまったものはどうなるのか。 天国に連れて行って貰えずに、そのままになってしまうのか。テサロニケの人々の問いは再臨に関して、非常に現実的でありました。 ローマの教会の地下にはいくつも大きな墓があるそうですが、そこにミイラのようになっている遺体があるのは、肉体がないと復活できないと信じたからでした。 私たちも、真剣に主が再び来るときのことを考えるならば、洋服は来ているのかとか、おじいさんはおじいさんのまま、 子どもは子どものまま神の国に行くのかとか、体重が軽い方が早く神の国に行けるのかとか、イエス様の顔を知らないで、 間違って天使を拝まないだろうかとか、たわいのない、しかし、現実的な問いが多く考えられます。それならまだしもいい方で、 キリスト・イエスの再臨について、キリスト者の中にも、そんな非科学的な事が起こるはずがない、と否定してしまう者もいます。 皆さんの中にも、イエス・キリストの復活はあっただろうけど、科学が進んだ今の時代、イエス様が雲に乗ってこられるとは、信じ難い。 そのように思っていらっしゃる方も正直いるでしょう。クリスチャンになってから25年以上になる私も信じることができなかった期間が長くありました。 今でも、どのように信じているのかと尋ねられれば、聖書に書いてある通り信じていますとは、言えない。 特に、今日与えられたパウロ先生が示した再臨の時の情景を説明できませんし、説明すればするほど、 それは本当のイエス様が来られる時の様子とは違ってしまうのではという恐れがあるのです。 さきほど読んでいただいた旧約聖書ダニエル書7章から終りの12章には預言者ダニエルに示された、 終りの時の様子が記され、マルコ13章にはイエス様が語られた、終末のしるしについて記されています。 そしてヨハネ黙示録はすべてが、終りの時を描写していますが、そこで語られる特別な意味ある言葉が、 実際何を指しているのか、理解できないことが多い。象徴的な意味があって、そのまま読んではいけないこともある。


3.何が大切か 命は甦るという信仰


しかしここで私たちが、心に留めなければならないことは、主イエス・キリストが来るときの様子ではなく、主イエス・キリストが私たちの救いのために、 神の国にいれて下さるために再び来てくださるという希望なのです。私たちが非常におなかが空いていて、友人の家に食事に行く時、 メニューを気にして行くか行かないかを決めるでしょうか。私だったら、「行く行く、とにかく行く。」と早く行くことは考えても、詳しいことは考えない。 神の国も、私たちに用意されていて、後はイエス様がきてくださるのを待つだけのときに、 イエス様の服装は?とか何に乗って行くとかあまり考える必要はないのではないかと思うのです。


黙示録21章3,4節(p477)には「」とあります。もはや、死も悲しみも嘆きも、労苦もない、新しい、天と地が用意されている。 私たちはこのこと以上に何が必要なのでしょうか。テサロニケ14節「主イエスが復活された」これこそが私たちへの約束なのです。命は甦るのです。


私はこのことを思う時、いつもいも虫を思い出すのです。いも虫は、自分が蝶になって空を飛ぶということを知っているでしょうか?私たちは観察から、 その事実を知っていますが、彼らは分からないと思うのです。葉っぱの上の一生しかないと思っていると思うのです。でも、新しい命があるのです。 人間の命も、神様によって大きく変化するのではないかと思わされるのです。


また、17節「いつまでも主と共にいる。」私たちはこの喜びを、希望を大切にして、18節「互いに励まし合う」のです。信仰から離れている友に、家族に、 キリストのこの福音を知らない人々にこの希望を伝えて行くのです。以前にも紹介した、 『ピーナッツ福音書』というスヌーピーの漫画には寒さに震えているスヌーピーにただ口先だけで「頑張れよ」と励ましている、 しかし、何の助けにもなっていない、現代の教会はそのように風刺されているということを紹介しましたが、それは本当の励ましでもなければ、 慰めでもないのです。18節で使われている、「励まし合う」という言葉のギリシャ語は「側に招く、呼ぶ」という意味があります。 私たちが自立した生活を送りつつ、神の家族として、親しい交わりを大切にするとき、 神の国は実にあなた方の間にある(ルカ17:21)といわれたイエス様の言葉が実現するのです。


4.最後に


暖かくなると、いろいろなスポーツが始まります。今は、ロンドンオリンピックの予選が行われています。 選手は一生懸命オリンピック出場を目指してトレーニングをし、戦うのです。私たちもまた、選手のように、 天の朽ちることのないメダル、永遠の命を目指して日々生きるのです。それは、決してそのことで救われるかどうかが決まるものではありません。 既に洗礼を受けた私たちは、救われているからです。しかし、なお、多くのことを学ぶために、より主を愛することができるために、精一杯、主の掟に生きるのです。