渋沢教会
更新日:2012.5.13

5月6日 御言葉の説教「祈られることの幸い」

大井 啓太郎牧師
列王記上13:1〜6
テサロニケ信徒への手紙U3:1〜5

 

私は学生時代、親からの援助なしで学費と生活費をアルバイトと奨学金でやりくりしていました。月末になるともやし炒めや、 マヨネーズだけでご飯を食べるということもよくありました。しかし、今はダイエットが必要なほど豊かに生活できているのは、 「祈り」によるのだと思うのです。自分自身が祈ったというのではなく、多くの方々の背後の祈りだったと思うのです。 経済的な援助だけでなく、何より、くじけそうになった時、祈られているという事実が、どれほど力になったことでしょう。 ヤコブの手紙5:16には「主に癒していただくために、罪を告白しあい、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは大きな力があり、 効果をもたらします」とありますが、それは本当のことなのです。

マザー・テレサさんの言葉で、好きな言葉があります。それは「大切なのはどれだけ沢山のことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです。」という言葉です。 心をこめる、それはまさに「祈り」です。私たちは一生涯、このことに遣わされているのです。 このことのために私たちは生かされているといっても過言ではないかもしれません。

使徒パウロは、祈りの力のすごさ、素晴らしさを本当に知っていた人でした。それは本当に祈られて初めて分かるものです。 ですから今日読んでいただいた個所でも繰り返し、真剣に祈りの要請をするのです。

しかし、私たちは祈られることに恥ずかしさを覚えます。どうしてでしょうか、それは私たちが、まだしっかりしているという心の鎧を着けているからです。 祈られるほどに自分はまだ弱くはない、そのように思っているからです。しかし、信仰者の本当の強さ、それは、 自分の弱さを認め素直に祈りを要請できることにあるのです。また、祈りを要請された者も真剣にとりなしの祈りを捧げなければならないのです