渋沢教会
更新日:2012.5.27

5月20日 御言葉の説教「新しいことを行う神」

大井 啓太郎牧師
ヨエル1:1〜20
使徒1:6〜11

1. 挨拶


おはようございます。昨日の夜、説教の準備をしていましたら、小さな虫が部屋の中に入り込んできました。先週のワークデーで草むしりをしましたが、 本当に雑草が生い茂っていました。雹が降って肌寒く感じるような時があっても、季節は少しずつ夏に向かっていると思いました。来週はペンテコステがあり、 チャペルコンサートもあります。渋沢教会の上半期の総決算のような感じです。私たちの心も、木々に負けないぐらい成長したいものです。それでは今朝もお近くの方と、 「シャーローム」「エイレーネー」という平和の挨拶でご挨拶ください。それではどうぞ。


2. ヨエル書とは


さて、今日から、旧約聖書の預言書のひとつ、ヨエル書を取り上げたいと思います。なぜ、ヨエル書かといえば、ヨエル書には、 ペンテコステでよく読まれる「若者は幻を見、老人は夢を見る」という聖霊を受けたペトロの説教に引用される聖句があるからです。 しかし、そのように聖句は知っていても、あまり全体として読まれない書のように思います。 そのように私はペンテコステに関連する旧約聖書ということで初めは選んだのですが、しかし、今回事前に学ぶ中で、 今日ほどこのヨエル書の言葉が私たちの心に迫る時はないのではないかと神様の導きを感じました。


最初ですから、少しヨエル書の書かれた時代背景をお話ししたいと思いますが、このヨエル書が書かれた時期は、諸説がありますが、 書かれている内容から推定して大体紀元前400年ごろと思われます。この時代は、捕囚から解放され神殿や城壁も再建され、礼拝も守られていました。 偶像礼拝の罪がこのヨエル書には書かれていません。しかし、諸国によって国土は分割されたままでした。そのような時にイナゴの大群の襲来という天災が起こるのです。


このヨエル書の著者は、1節にあるようにペトエルの子ヨエルとしか書かれておらず、他のところには出てこない預言者です。 彼はこのイナゴの来襲を「主の日」すなわち、滅びの日と理解し、人々に悔い改めを迫るのです。


3. 新しいことを行う神


今日の聖書を見ますと、1節づつ厳しい現実に置かれていたことが描写されています。 それは、6節「一つの民が私の国に攻めのぼってきた」とあるように一国の軍隊が攻めてきたようであり、7節「皮をひきはがし、 枝を白くして投げ捨てた」と木々の皮が全て食いつくされ、幹がむき出しになっている様子が描かれ、 9節「ささげものの穀物とブドウ酒は主の宮から断たれ」と祭壇にささげるささげものすら、無くなってしまっています。 その悲しみのほどは8節の「いいなずけに死なれて粗布をまとうおとめのよう」であり、また13節にあるように、 祭司が粗布をまとったまま夜を明かすほどのものでした。また、14節にあるように国民すべてが一同に会して礼拝するほどの重大な出来事だったのです。 15節にあるように、その状況は「恐るべき日」であり、「全能者による破滅の日、主の日」を予感させるものでした。


19節以下は、ヨエルの、又、人々の嘆きの祈りが記されています。青々とした緑を炎が野の木を焼き尽くしたかのように無くなってしまった。 あなたを呼ぶしかありません、という祈りの言葉です。


4. 我々への適用


私は、この預言の言葉は、まさに昨年の3.11を経験した私たちのこの国に対してなされたもののように感じました。イナゴが全てを奪い尽くしたように、 津波も又全ての物を押し流してしまったからです。現地に2度行き、感じたのは、空虚そのものでした。あるものは、廃墟とがれきだったからです。


片付けと言っても何から手をつけていいのか分からない。人としての無力を毎回感じて帰ってきました。 なぜこのようなことが起きたのか?神はこのことから何を伝えようとしているのか?そのようなことを考えさせられたのです。 ただ、ボランティアに行っただけでもこのように思わされるのに、私以上に、そこに住み大切なものをすべて失った人々の嘆きは、 どれほどでしょうか。そしてなお、私たちのこの地域は、大きな地震の恐れが依然としてあります。


主の日、それは、主イエス様がマルコ13:14〜で預言されているように奪われる日です。奪われるというのは悲しみであり、痛みです。 しかし同時に、それは新しいことをするためには必要なことでもあるのです。


週報にも書きましたが先週中会女性の集いがあり、ゲストに福音歌手の森祐理姉が来ていました。彼女の弟さんは阪神淡路大震災で命を落とされました。 そのようなことから、彼女は世界各国の災害被災地に行き、福音を歌に載せて届けているのです。 その歌っている背景に津波で何もなくなった所に一つの十字架が立っている映像が映し出されました。 それを見た瞬間、宣教が困難とされる日本の、その中でも更に困難な東北地方に福音が届けられるために、 余計なものがすべて取り払われなければならなかったのではないかと思わされたのです。 新しいことを行う前に主なる神は、驚くべきことをされるのです。来週はペンテコステですが、使徒1:6-11では、 復活の主イエス様が、天に挙げられる場面が描かれています。私は思うのです。新しい聖霊など与えられなくとも、 イエス様がそのまま地上に残られればいいじゃないか。そうすれば、敵対していたファリサイ派の人だって信じるようになるんじゃないか、と。 しかし、ここを読むと弟子たちの言動は、まだイエス様任せで無責任であることが分かります。しかし、主なる神は、人間に福音宣教の使命をお与えになったのです。 そのために主は天に挙げられ、弟子たちに聖霊が注がれたのです。


神様は全てを益として下さいます。先の悲惨な震災も神様はそれを用いて東北の人々を導こうとされているのです。主の日とは、主がなさる新しいことなのです。 多くの不安が、私たちにはありますが、それでも主が私たちを成長させるために新しいことをしてくださいます。