渋沢教会
更新日:2013.12.19

12月8日 御言葉の説教「待降節A御子イエスの使命」

大井 啓太郎牧師
イザヤ書61:1〜11
ヨハネ3:16〜21

 

ヨハネ福音書3章16節は、福音中の福音と呼ばれる大変有名な箇所ですが、私は今になってこのヨハネ福音書の言葉が よくわかるようになってきました。というのも、私の子どもは今高校1年と中学2年なのですが、父親である私と過ごす時間 がめっきり少なくなりました。どこの家もだいたいそうだと思うのですが、部活や塾などで家にいないのです。 関わりが減りました。 子どもに、よかれと思って言ったことも、子どもにしてみれば面倒くさいこともある。 たばこを吸って歩いていた中高生に注意しても「はーい」と軽く返事をされるだけ。大人の言う事など、 あまり本気にしてくれないのです。本気にさせるには、そうとうこちらも本気で行かなければならないでしょう。

まさに神様が、人をお救いになるわざというのも、全能だから、万能だから何でも簡単にしてしまうのではなく、 全く神様のほうに心を向けない愚かな人間に対して、それでも、愛するがゆえに無理をされた。それが御子の十字架という 贖いにつながったのです。親が子を思う気持ち、おじいちゃんが孫にたいして、怪獣ごっこでわざと負ける気持ち、 これらは全て、愛から来ていることです。主なる神様は、人を愛するがゆえに一番簡単な方法で、神の国への道を示されました。 それは、「信じる」ということです。大人でも子供でも、力があるものでもないものでも、等しく開かれていること、 それが信じるということです。イエス様を信じる、それだけが永遠の命を得る唯一の方法なのです。難しい、苦しい修行や、 高度な知識、家系、裕福さなど全く関係ないのです。神様は、できるだけ公平に誰でも神の国が得られるようにされているのです。

しかし、ただイエス様を信じるだけで良いと言われても実感に乏しく感じてしまう。 目に見えるものの誘惑、これが悪魔の力です。悪魔は、少しずつ私たちの視線を神様でない物や事柄に向けさせるのです。 しかし、あの放蕩息子のたとえに出てくる弟息子のように、本当に何もなくしてしまった時に、「ただ信じるだけで良い」 としてくださった神の愛が分かるのではないでしょうか。