渋沢教会
更新日:2014.1.16

1月5日 御言葉の説教「究極の決断」

大井 啓太郎牧師
創世記22:1〜19
マタイ11:28

 

 今日与えられた聖書箇所、創世記22:1−19ほど、神様の言葉とは思えない内容を含んだものはないと思います。 やっと授かった息子を殺して神に捧げよというのですから。しかし、初子を神にささげるという習慣は、 古代では広くなされていた風習でした。中米のアステカ文明では、太陽神のために生きた人から心臓を取って捧げたそうですし、 水害に苦しんだ日本でも川の氾濫に際して、人柱をたてて、竜神の怒りを鎮めたという伝承が各地に残っています。 聖書には後のユダヤ人もこの風習に従っていたことがうかがわれる箇所が、ミカ6:7や、列王記下23:10などに 記されています。古代の人々にとって、人こそ神に捧げる最高の供え物でありました。

 しかし、アブラハムは悩んだと思うのです。6-8節の間の親子のやりとりをみると、 そのことがにじみ出ているように思うのです。私が、もしアブラハムの立場だったら、きっと息子ではなく、 別のものをと言って、交渉するかもしれません。しかし、彼は神様にソドムとゴモラが滅亡する時にしたような、 交渉をこの時は行いませんでした。どうしてでしょうか?

 アブラハムは、成長していました。100歳の時にイサクを与えられるまで、多くの困難と試練の中で、 主なる神の導きを知り、最善をなして下さるということを知っていたのです。 そしてそれが、本人の願いとは違う結果になるとしても、 この時のアブラハムは受け止める用意ができていたのではないでしょうか。

 究極の状況の中で、何を選び決断するか、実は私たちも日々の信仰生活の中で、例えば礼拝を守ること、 献金のささげること、奉仕をすることなどで経験しているのではないでしょうか。 葛藤する中で少し、我慢をする。神様に委ねてみる。そのような生き方をしていくと、神様からの恵みをいただき、 心から「主の山に備えあり」と言えるようになるのです。