渋沢教会
更新日:2014.2.10

2月2日 御言葉の説教「生涯の務めを終えて」

大井 啓太郎牧師
創世記25:1-11
ローマ 9:6-8

挨拶


 おはようございます。小雨交じりの朝を迎えました。2月に入りましたが、お気づきの方もいらっしゃると思いますが今週、 柿がきれいに食べられてしまいました。おいしくなったのでしょう。私は何回か、トライしてみましたが、甘いは甘いのですが、 渋みというのか、エグみというのか、口に残って食べられませんでした。 もしかしたら、食べ物が少ないこの季節ですから、鳥は我慢して食べたのかもしれません。 イエス様がおっしゃった「空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。 だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」というみ言葉のとおり、神様が備えてくださるもので満足するという生き方を、 私たちは実際に身近な鳥から学べます。そして鳥にとって、渋沢教会の庭は、寒い冬を乗り切るために大切な場所であるように、 私たちの人生にとっても渋沢教会が大切な場所だということも教えられるのです。


 また、今日、2月第一主日は、週報にも書きましたが、カンバーランド長老教会の創立記念日です。 特に今年は、カンバーランド独自の信仰告白が制定されて200年という節目の年です。 私たち長老教会、長老派と呼ばれるルーツは宗教改革者カルヴァンにあるのですが、 多くの長老教会が採用していたウエストミンスター信仰告白にフロンティアに生きた人々は疑問を持ち、 人間の存在の意味について考え、修正を加えたのです。詳しくは信仰告白の序文に書かれているので、 見ていただきたいのですが、そのことによって、カンバーランド長老教会は、長老教会の中でも独自の道を歩み出したのでした。 それから、約100年おきに、信仰告白は改定されました。このように信仰告白が変わるものは珍しいのですが、 しかし、時代や文化が移り変わる中で、その時にどのように信仰を言い表すのかと、真剣に考えられて改定がなされました。 だからこそ、信仰告白がいつも新鮮な輝きを放ち続けることができるのです。 ぜひ、この機会にもう一度信仰告白を読み直してみてください。


 少し前置きが長くなってしまいましたが、それでは、いつものように、お近くの方と主のみ前に集うことができたことを感謝して、 「あなたに平和があるように」という意味の「シャローム」「エイレーネー」「エレーネー」とご挨拶しましょう。 どうぞ。


1.晩年のアブラハム


 さて、今日読んでいただいた個所はアブラハムの最晩年の姿を描き出しています。 意外に思われた方もいるかもしれませんが、あれほどの愛妻家であったアブラハムが再びケトラという妻をめとるのです。 研究者の中には、サラの死後のことではないと考える人もいますが、ハガルとイシュマエルのことで、 辛い思いをしたアブラハムが、同じ過ちをすると考えるよりは、サラが天に召され、淋しさを覚え、 また137歳となったアブラハムの世話をする人が必要だったのではないかと考えたいのです。 ですから、妻というよりは6節にあるように「側女」といった表現が正しいのかもしれません。 4節を見てもわかるように、アブラハムの子孫とは書かずに「ケトラの子孫」とありますから、 明らかに待遇に違いがある事が分かります。ハガルに対して神様は祝福の言葉を与えられましたが、 ケトラにはもう、神様とのそのような対話は聖書には描かれずに子孫はそれぞれ、一つの民族を形成していきます。 そして、後にそれらの民族は、イスラエル民族と争いを繰り広げることとなるのです。


2.身勝手なアブラハムと思ったが


 私は、この箇所を準備するにあたって、最初は何でアブラハムはまた、妻をめとったんだ。 このことによって、イシュマエルの子孫だけでなくさらに多くの民族と後の時代争うことになってしまった、 もうイサクという後継ぎがいるのだから、これ以上問題を大きくしなければいいのに。と思いました。 しかし、17章にあったように神様は「多くの国民の父、諸国民の父」とするように契約されていたのです。 17章には、今日はお読みしませんでしたが、25:16にあるようにイシュマエルが12人の王の父となることも語られていました。 ですから、このことは、神様のご計画の中にあった事なのです。 アブラハムによって大地の砂粒と同じように数えきれない子孫を生みだすことが、アブラハムの役割だったのです。 後の時代、イスラエル民族と周辺の元は同じアブラハムから分かれた民族が争ったのは、アブラハムの責任ではなく、 その時代その時代に生きた人々が、神と向き合い、平和を模索しなければならなかったのです。 イスラエル民族は、神に選ばれた民族という自負が、他民族の蔑みになりました。 本来、神の選びを、特権として考えるのではなく、大いなる責任として考えなければならなかったのです。 そのことが、同じ父をもちながら、あい争う結果を生んだのです。そしてそのことはすぐ、 エサウとヤコブという実の兄弟の中に生まれてしまうのです。


3.生涯の務めを終えて、


 アブラハムは、175年という生涯を終えて天に召されました。8節に「満ち足りて死に」とあります。 アブラハムは、いろいろな出来事の中で、例えば妻のサラを妹と偽ったり、イサクの誕生を信じず、神を笑ったり、 ハガルとイシュマエルを心ならずも追放したりと決して完全な人物ではありませんでしたが、 主なる神はいつも彼の傍らにいてくだり、道を示して下さったのです。 だからこそ、彼は信仰の父と呼ばれるにふさわしい存在なのです。 9節を見ると、彼が亡くなった時、イサクとイシュマエルは二人で父を葬ったことが記録されています。 二人の関係は決して悪くなかったのです。しかし、時代と共にその子孫には心に隔たりの壁ができてしまったのです。


4.私たちへの適用


 私は、先週神学生時代に教わった学長の葬儀に出席しました。 その先生は、本当に才能豊かで、何か国語も操り、ピアノも弾け、絵も描けるすごい方でした。 しかし、それ以上に、人間的な優しさがあった方でした。そのような先生でしたから、 葬儀には神学校の礼拝堂には入りきれないほどの牧師が出席していたのです。 教会のためになることは何でもやったと生前語っていたことが紹介されましたが、私には才能も力もありませんが、 できることをコツコツとするなかで、満ち足りた人生の終わり、新しい命の出発をしたいと思わされたことです。 どうか、皆さんも与えられた命が地の塩、世の光として祝福の基になっていることを今一度、かみしめましょう。