渋沢教会
更新日:2014.3.23

3月9日 御言葉の説教「崖っぷちの人生から」

大井 啓太郎牧師
創世記28:10-22
ヨハネ 9:24-25

挨拶


 おはようございます。先週の水曜日は、受難節(レント、四旬節)最初の日である灰の水曜日でした。 説教台の布、アンテペンディウムも悔い改めを表す紫色に代わりました。そもそもレントとは、 イエス様が宣教生活に入られる前に、荒れ野に退き、四十日間、祈りと断食を行った(マタイ4・2)ことに倣って設けられた、 祈りと断食の季節です。イースターを心から祝うために、ローマの教会に、このような四十日の準備期間が導入されたのは、 四世紀の後半であると言われています。またこの期間は、 復活祭に洗礼を受ける志願者のための最終的な準備の段階に当てられてきました。 今年は渋沢教会では、週報にはお二人の名前が挙がっていますが三名の方の受洗、信仰告白が予定されています。 どうぞ皆様も、洗礼を受けた時の思いに立ち返り、悔い改めの時としてお過ごしください。


 また、今週は東日本大震災から四年目を迎えますが被災地、特に原発周辺は時間が止まったままです。 2020年に東京オリンピックが開催されますが、そのための施設建設に、多くの費用がつぎ込まれ、 震災地の復興がその分遅れるという懸念も生まれています。 私たちは、この震災と原発事故からいったい何を学んだのでしょうか。人々の関心はだんだんと薄れていきますが、 私たちにできること、それは、あのような事故が起きないように発言し、行動していくということではないでしょうか。


 それでは、いつものように、お近くの方と主のみ前に集うことができたことを感謝して、 「あなたに平和があるように」という意味の「シャローム」「エイレーネー」「エレーネー」とご挨拶しましょう。どうぞ。


1.ヤコブの旅


 さて、皆さんは、十分な身支度も整えないで旅に出られたことがおありでしょうか? 旅慣れた人だと、身の回りのものは最低限のものでいいといいますが、私はやはりあれも必要、 これも必要といろいろ考えてしまいますし、旅に出てから、大事なものを忘れて、計画が狂うこともある。 ですから、私は旅行に行く時は、結構綿密にプランを立てるほうなのです。 今度中高生と千葉の房総半島に行きますが、たかだか千葉にいくのですら、あれこれ調べて、下見までしても、 まだ落ち着かない所があります。しかし、今朝読んでいただいたヤコブには、全くそのような準備や計画する時間的余裕はなく、 ほとんど夜逃げのような状態で旅に出たのです。今のように地図があるわけでもなく、太陽や星の位置で、方角がわかるだけの、 旅先で進む道がわかるようなそんな旅だったのです。


 ただ、母リベカに言われた、兄ラバンのところに身を寄せなさい、そのうち呼び戻すからという言葉だけが、 彼の唯一の希望だったのです。しかし、心は不安でいっぱいだった事でしょう。 行き先も分からず、実際ラバンの家についてもどのようになるか分からない。帰れる日も分からない。 全てが分からないづくしの中、八方ふさがりのなか、しかし、彼は進むしかなかったのです。


2.野宿するヤコブ


 そんな旅のある日、日が暮れて、彼は野宿することにしたのです。 私も学生時代、三浦半島をヒッチハイクと徒歩で一周した時に野宿をしましたが、ちょうどこの3月でしたが、 砂浜で寝た時は夜中に潮が満ちてきたり、雨が降って持っていた寝袋だけでは寒くて、 捨ててあった毛布で暖をとったりと大変でしたが、野宿というのは聖書の時代も現代も大変なことだと思います。 彼は父親から祝福をだまし取りましたが、この旅行に際しては、お付きのものもいませんし、 アブラハムがイサクの花嫁を探す時に召使いに多くの贈り物を持たせて、 承諾させたような贈り物となるような物も持たせませんでした。 ですから、彼はこの後の話になりますが、贈り物の代わりに14年間ラバンのもとで働かなければならなかったのです。 本当に最低限の物しか彼は持って出なかったのでした。 彼は寝るために適当な大きさの石を見つけてそれを枕にして、眠ったのです。すると彼は夢を見たのです。 12節「」昔使っていた口語訳の聖書ではこの階段を梯子と訳していましたが、元の単語からすると階段のほうが近いそうです。 み使いたちが、天に続く階段を上ったり下りたりしている光景をヤコブは見たのです。


 そして、それだけでなく主なる神様が、ヤコブの傍らに立ち、アブラハムやイサクが受けた契約の言葉、 祝福を与えたのでした。「決して見捨てない」と。


 ヤコブは目を覚まして、悟りました。16節の言葉は印象的です。 「私は知らなかった」この言葉は、彼のこれまでの人生そのものを表している言葉のように思います。 ヤコブは八方ふさがりの中にいました。それは、今日の説教題のように崖っぷちにいたのです。 しかし、天に続く階段を見た。逃れの道を見出したのです。彼は、一人ぼっちと思っていましたが、 神が共におられることに気が付いたのでした。


 かれは、翌朝、起きて自分が枕に使っていた石を立てて記念碑にしました。 そして、彼は20節にあるように彼自ら誓いを立てたのです。「」彼は奪う者から捧げる者へと変えられたのです。


3.私たちへの適用


 さて、私たちは、この物語から何を学ぶことができるのでしょうか。 前回も申し上げましたが、神は私たちの困難の中で、語られる神、傍らにいてくださる神なのです。 罪にまみれた私たちと共にいてくださるためにインマヌエルなるキリストを世に遣わして下さいました。 私たちはこの神に、信頼したいのです。どのような困難があっても、共にいてくださり、私たちの進むべき道を示して下さると。