渋沢教会
更新日:2014.7.26

7月13日 御言葉の説教「さあ、祝福の地へ」

大井 啓太郎牧師
創世記35:1〜15
ガラテヤ6:14〜16

 

 大虐殺となった「シケム事件」によって、ヤコブらは、その場所にとどまることができなくなりました。 シケムと同盟を結んでいた近隣の町からの報復を恐れたからです。ヤコブは祈りました。すると主なる神は、 ベテルに行くことを指示されたのです。その聖なる場所に向かうに当たり、ヤコブは一族のものに、自分が付けている、 また持っている神々を取り去るよう命じました。この中には、ラケルが父ラバンの家から持ち出した守り神もあったことでしょう。 こうしてイスラエルと呼ばれるようになった一族は、ただ一人の神を信じるようになっていくのです。 そして、ここに兄エサウと弟ヤコブの決定的な信仰的な違いが生まれるのです。 兄エサウが求めていた長子の権利とは、父イサクが持っている物質的な財産だったのですが、 弟ヤコブは、さまざまな苦難の中で体験した神との対話、体験がありました。ベテルの出来事、ペヌエルでの相撲、 ヤコブはいつも主なる神の守りを感じていたのです。 主が共にいて下さる、まさにこれこそがアブラハム、イサクから続くまことの神の祝福、契約だったのです。

 この物語から私たちは、神が与えて下さる祝福とは何かを考えてみたいのです。 祝福された人生と一言で言えば、仕事が順調だとか、子宝に恵まれているとか、健康などと答えることが一般的ですし、 そのことも含まれています。しかし、もし、自分自身の繁栄だけを考えているならば、 まったくエサウと変わらないのではないでしょうか。神の祝福というのは、私たちが考える以上のものであり、 それは神様との契約に基づいているものなのです。自らの豊かさに満足するのではなく、神の正義、平和がなされるように、 与えられた賜物をしっかりと管理する生き方こそ、祝福された生き方となるのです。ヤコブにはこの後も試練が続きます。 私たちもまた、祝福されていることを喜びながら今週1週間を過ごしていきましょう。