渋沢教会
更新日:2014.12.26

12月7日 御言葉の説教「待降節A 居場所を探して」

大井 啓太郎牧師
ミカ5:1
ルカ2:1〜7

 

 ヘロデ大王のほかにクリスマスの物語で嫌われる人物と言えば宿屋の主人でしょう。 降誕劇では、身重のマリアとヨセフが、ベツレヘムの町に着いて、宿屋に「泊まらせて下さい」と頼みますが宿屋は、人口調査のために帰ってきた人であふれかえっていて、 宿屋の主人に泊められないと、断られるシーンが必ず出てきます。そして、その宿屋のおかみさんが、家畜小屋だったら泊まれるよと言ってくれて、 ようやく落ちついて、イエス様が産まれるというようなストーリーです。このような心ない仕打ちが人間の現実であり、そのような醜く、 貧しい私たちのために主が来てくださったというのが、正統的、伝統的な理解だと思います。しかし、宿屋の主人については、聖書では一言も触れられていませんし、 あの東方の学者たちが3人という思い込みと同じような誤解をしている可能性があるように思うのです。

 まず、ヨセフとマリヤは人口調査のために生まれ故郷に帰りました。とすれば、宿屋に泊らずとも、彼らを泊めてくれる親戚の家があったはずです。 また6節を見ると、『ベツレヘムにいるうちに』とありますから、すでにある期間滞在していたことが予測されます。さらに日本語訳の『宿屋』は単に部屋と訳すこともできるのです。 そう考えると、降誕劇のような宿屋の主人がヨセフとマリヤを追っ払うようなものでなかったように思うのです。 また、律法の規定によれば、出産もけがれであるとレビ記12章15章にはありますから、宿屋の主人は、律法を守るために関わらないようにしていたとも考えられるのです。

 しかし、宿屋の主人がどうであれ、主イエスが家畜小屋でお生まれになったことに変わりはなく、それは私たち人に愛がなかったことを意味しているのです。 宿屋の主人にもまた、私たち自身を見るのです。