渋沢教会
更新日:2015.01.31

1月11日 御言葉の説教「素晴らしい物語の始まりA」

大井 啓太郎牧師
マラキ3:1
マルコ1:1〜8

 

 福音の原点は、「イエスこそ神の独り子、メシアであり信じるものは救われる」ということですが、マルコ福音書は、主イエスの誕生については、一切触れていません。 天使が歌い、星が導いたという不思議な誕生物語の代わりにバプテスマのヨハネを登場させ、 罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマを施していたことを語るのです。 バプテスマのヨハネは祭司ザカリヤとエリサベトという夫婦の子どもであり、長く子どもが与えられなかった末に与えられた奇跡の子でした。 彼には道を備えるという役割があったのです。救い主が現れる前にエリヤが現れるという預言がマラキ書3章1節、23節にありますが、彼がそのエリヤとされたのです。 ヨハネは、荒れ野での生活を始め、語り出しました。その内容については、マタイ3章に詳しく書かれていますが、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語り、 人々に神の国の到来が近いこと、救い主メシアが来られることを説き、ユダヤ中の町々から来た人々に洗礼を授けました。

 ではどうして人々は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのでしょうか?ユダヤには、神の教えである聖書とそれを教える律法学者がいました。 罪を犯した場合、贖罪の捧げものを神殿にささげることによって罪は赦されるというのが、モーセ以来の教えでした。 ですから、エルサレム神殿こそ、赦しの中心であったのです。しかし、その赦しに与ることができない人々がいました。 神の教えを守れない罪人とされた人々です。そしてヨハネの元には、彼らを罪人とレッテルを張った側の人々もやってきました。 彼らは完全に救われるために、ヨハネの元を訪れていました。そのような態度の人々に対してヨハネは「蝮の子らよ」とマタイ3:7以下できびしく戒めています。

 私たちも彼らのように、独善的な思いで、礼拝をささげてはいないでしょうか?イエス様が来られたのは、罪人を招くためでした。 再臨のキリストが来てくださる時まで、主の道を整えるものでありたい。