渋沢教会
更新日:2015.01.31

1月18日 御言葉の説教「洗礼を受けたイエス」

大井 啓太郎牧師
イザヤ42:1〜4
マルコ1:9〜11

 

 洗礼とは、罪を自覚した者が、その汚れを取ろうとする自発的な行為です。 簡単な例で言えば、赤ん坊は、何も分からず口に入ってくるものならなんでもなめますが、分別がつく年頃になれば、どろんこの手のままで、御飯を食べる事はしません。 水で手を洗うでしょう。それと同じように、神の国に心から入りたいと願うならば、主はそのままでいいよと、言って下さったとしても、 入るための準備をすることが分別ある信仰者の姿なのです。それが、悔い改めなのです。しかし、この洗礼理解がしっかりしていないと、 洗礼を何か魔術的な意味があるように思ってしまう。唯洗礼を受ければ、神の子とされる。それまでの自分とは違う自分になれるように思ってしまい、 そして、事実そのような思いで洗礼を受け、何も変わらない自分に失望してしまうのです。洗礼とは悔い改めのしるしです。また、悔い改めとは、 いつも身近に主の存在を知り、自らの歩みを正す事でもあります。

 そのような洗礼を主は受ける必要があったのでしょうか?主は罪のないお方です。なぜ主は洗礼を受けられたのでしょうか? その答えは、主は私たちのために洗礼をお受けになったということです。親が子どもに何かを教える時のように、 私たちに洗礼を受けることの意味をご自身を通して語られたのです。そして主の洗礼の時に響いた「これは私の愛する子」という声は、 主の御名によって洗礼を受けた私たちに対しても語られている言葉なのです。私たちがその主を信じ、自らの罪を告白し、悔い改めて、洗礼を受ける時、 洗礼は「主に従うしるし」として本当に輝き出すのです。洗礼は受けるものです。しかし、やはり神の導きがなければ、受けることもままなりません。 受洗したものは、その恵みに感謝し、まだの者は導きを祈りましょう。