渋沢教会
更新日:2015.03.08

2月22日 御言葉の説教「私達を隔てるもの」

リサ・ アンダーソン牧師
ルカ16:19-31

私は20年の間、牧師をしていますが、その間、国際的にも知られている小児科専門病院でチャプレンとして奉仕してきました。その病院は癌や、命に関わるような重い病気の治療を行っています。 死期の迫ったお子さんを持つご家族と一緒に、集中治療室にいた時、ふと窓の外を見て、病院のすぐ近くにある高速道路を行き交う、沢山の車を目にしました。そのことが、私の自覚を促すきっかけになったのです。車でせわしく動き回っているこれらの人々は、すぐそこで起こっている、想像を絶する程の苦しみに 、全く気付く事無く、唯、自分の仕事のことだけにしか心を向けていないのだ、と感じたのです。それまでは、病院でも見過ごされがちだった事ですが、そこに存在する苦しみに気づいてしまった以上、もう決して、私には、その苦しみを無視することはできなくなりました。


今日の聖書箇所で、イエス様が語られた話は、北アフリカの民話にルーツがあるとも見られているようですし、更にエジプトや主イエス様が教えを語られていた村々での口伝えの話にもそのルーツがあるようです。ルカが教会のために書き記したこの物語と、それらの民話とは、あい通ずる教えを持っていると言っていいかもしれません。


さて、この物語の二人の登場人物の特徴は、今日の私たちにとっても、わかりやすいものです。


その一人である金持ちの男は、現在で言えば、経済誌の「フォーチュン500社」に掲載されるような莫大な利益を上げている会社の人々のように、富と特権に恵まれた生活をしており、この男は、自分の周りにいる、彼の助けを必要としている人達の事など、全く 思いやる暇も心も無かったのでした。


もうひとりの登場人物ラザロについては、より鮮やかに身近に感じられるように書かれています。


そして、この二人が、その貧富の差によって生じた、大きな深い淵に妨げられて、全く接点を持つことがなかったということが、この物語の重要なポイントです。 この二人を隔ててしまったものは、住んでいる場所や、人間性や、信仰によるものではなく、その当時の社会にも存在していた貧富の差によるものだったのです。


このイエス様のお話で、私達もすぐ気付く点は、ラザロが名前を与えられているのに対して、金持ちの男は、ずっと名前を与えられていないままだということです。 このことは、イエス様は、貧しい者を無視して省みない者達よりも、常に貧しい人々に、心を留めておられるということを示しています。イエス様という方は、正にそのようなお方なのです。 ラザロは、この金持ちの男が、自分の飢えや渇きを癒してくれるよう、強く望んでいたのです。 それにもかかわらず、この金持ちの男は、ラザロを全く顧みることはありませんでした。・・・それこそが、この男の最大の罪深い破滅であって、彼自身を苦痛に満ちた死後の境遇に陥らせることになったのです。


この二人はともに死んで、そして死んだ後でさえ、二人の間の断絶が埋まることありませんでした。そして、興味深いことに、彼らの死んだ後、この二人の立場は全く逆転してしまうのです。ラザロについては、その後のことは、割合記述が少ないのですが、金持ちの男が受けた苦痛については、細かく詳しい記述があります。 この物語が強調して語っている点は、どうしてこの男が、苦難の道へ転落してしまうことになったのか、そのことを私達がきちんと理解することによって、イエス様が私たちを救おうとされていると言うことです。

それは、私たちの、今の日々の生き方や霊的なあり方に関わっているのです。


この死後の惨めさの中にあっても、金持ちの男は、自分が苦しみの落とし穴に落ちる原因となった思い煩いを、断ち切ることが出来ませんでした。 彼は、地上での生活では、富を持っていたために却って、孤立していたのですが、死んだ後に語ったこともまた、相変わらず、自己中心的な事だけでした。 彼の関心は、自分の家族だけのこと、つまり彼が、絶対に諦められない裕福な生活を、自分の家族に続けてもらいたい、と言うだけの狭いものでした。

では、ラザロを生きかえらせ、金持ちの家族の所に話しに行かせたらどうでしょうか?

死から蘇って来た男の言うことなら聞かざるを得ないのではないでしょうか?

いえ、彼らの答えは金持ちの男の場合と全く同じなのです。

富と特権階級の中にいる人々は、決して、ラザロに目を向けようとはしないでしょう。ラザロは、相変わらず気にかけるに値しない存在であり、彼が死んで永遠の命を得た者になっても、金持ちなった訳ではありませんから。ですから、どんなラザロの言葉も、モーゼと預言者のメッセージに勝ることは無いのです。このモーゼと預言者のメッセージは、以前から神の民達にはっきり示されているものです。この全世界の造り主が、私達に教えているのは、恵まれない人達に、いつも心を寄せなさい、と言うことなのです。


そこで、私達の生きている今日の問題として、恥ずべきことがあります:

神様は常に、貧しい者に心を傾けておられるのですが、不正がはびこり、貪欲に富を求めるこの現実社会にあって、私達は、自分達の快適な生活を維持するために、その神様の心に、目をそむけざるを得ないのです。


私たちは、自分達を取り巻くこの世界の真実について、一体誰を信じているのでしょうか?


私達は、貧しい人々が、今の社会制度で、優遇されているという言う話を信じ、また貧しい人々自身が、その制度を台無しにしてしまっている、と言う話をも信じ、更に貧しい人を援助することが、問題を悪化させている、と言う話さえ信じ込んでいるのです。 そして、慈善事業などでは、決して人間同士の関係を築くことはできないとか、救済の施設が、貧しい人々の悩みを解消することなどできない、という話に頷いてしまうのです。


そこで、今、死者の中から誰かが蘇ってきて、私達に、こう言う現実について何か説明してくれたら、と思うのです。 でも、私は女友達であったグエンが死から蘇えることは望んではいません。何故なら、ラザロが神の元にいるアブラハムの懐に抱かれて、平安の中にいる事を信じているからです。 しかし、私達もまた、神様の思いに目をそむけている、正にその人々なのです。 この話の語り手である神の人、ナザレの主イエスは、貧しい人、孤独な人、 そして虐げられている人々に、大きな慈しみをもっておられます。 しかし、それでも尚私達は、甦られた神の人に対して、復讐を果たす者、戦う者としての間違った期待をしてしまうのです。 私達は、何も聞こえない者であるかのように、現実に対して、いつも耳を塞いでしまうのです。


私は、3年程前に、自分の使命を変えられる経験をしました。そのことによって、私のコロニアルカンバーランド長老教会の群れの中から生まれた、新しい主の働きを始める事へと導かれたのです。その働きは「ルーム・イン・ザ・イン・メンフィス」、直訳すると「宿屋メンフィスの部屋」と呼ばれ、ホームレスの人々に、教会の建物の中で暖かく安全に過ごせる冬の間の緊急避難場所を提供しています。 私は、メンフィスの路上生活者と知り合いになるにつれて、初めて、25年以上も住んでいたにもかかわらず、彼らの生活については、何も知らなかったのだと思い知らされました。 そのような人達と出会い、私達は友人となることができました。そして、もう決して私は、彼らの苦しみと、困窮した生活を見過ごすことは出来なくなりました。その人達ときちんと向き合うようになって以来、彼らの苦しみから逃げ出すことは出来なくなったのです。


もし死者が蘇って、私達に、周りの病気の人、孤独な人、虐げられている人達に手を差し伸べるようにと言ってきたら、私達はどうするのでしょうか? 私は、自分が看取った子供達が、また苦しみの場所に戻って来ることを、望んでいるのではありません。メンフィスの路上で死んで行った、友人のグエンが蘇ることも望んでいません。何故なら、この不正に満ちている地上には、彼女が帰る避難場所など無いからです。 彼らは蘇ってくる必要などないのです。私達は、イエス・キリストの復活の証人であって、主イエス様の栄光を目の当たりにしてきた者なのですから、イエス様が、私達に命じられている奉仕に気がつかないフリをすることは、もう決してできません。

この神の国の教えと、地上の現実との落差を埋めることこそが、私達の使命であり、そのことによって、今この世にある、私達の間の隔たりも無くすことができるのです。

アーメン