渋沢教会
更新日:2015.03.21

3月8日 御言葉の説教「主イエスの癒し」

大井 啓太郎牧師
エレミヤ17:14
マルコ1:29-34

挨拶

 おはようございます。今朝もどんよりとした曇り空の朝を迎えました。この季節、三寒四温と言いますが、一番体の調子が狂う季節ではないでしょうか? 花粉症の方でしたら、なおさらです。私も花粉症はないと思っていたのですが、涙目で、気が付くと目をこすっていますから、どうも花粉症になってしまったようです。 医学も進歩して、治らない病気が治るようになる一方、生活習慣病など、新しい病気も出てきます。私たちは生きている間は、この病という体の変調と向き合わなければなりません。 今日与えられているみ言葉はまさに、この病という人間が越えられない問題に対して、主イエスが解決を与えてくださることが記されています。


 それでは、いつものように、お近くの方と主のみ前に集うことができたことを感謝して、「あなたに平和があるように」という意味の 「シャローム」「エイレーネー」「エレーネー」とご挨拶しましょう。どうぞ。


1.聖書から

 さて、イエス様は、会堂で新しい教えを語った後、シモン・ペトロとその兄弟アンデレの家に向かわれたのです。そこには、熱を出したペトロの義母が、いたのです。 この箇所は、ルカ福音書と順序が逆になっています。ルカ福音書では、まずしゅうとめの病をイエス様が癒された後、ペトロたちを弟子として招いたことになっています。 私はそちらの方が自然な流れのように感じますが、マタイ福音書では、ペトロたちの招きとは関係なく扱われています。 今日はマルコ福音書を中心に、見て行きますので会堂から出てきて、ペトロたちの家に向かったと理解しましょう。 1:20と21節の間には実は相当な時間が流れており、主イエスに従い、家を飛び出したペトロたちが久しぶりに実家に戻ってきたと考えれば、理解できます。


 そしてこの箇所から分かるのは、シモン・ペトロが結婚していたということです。病がいやされたしゅうとめは、一同をもてなしたとありますが、妻のことには触れられていません。 ある神学者は、ペトロの妻は亡くなっていたと理解しました。もし生きているのであれば、彼女が一同をもてなしたはずだからです。 そのようなことが行間から読み取れるのですが、私たちが注目したいのは、マタイ福音書8:15、「イエスがその手に触れられると、熱は去った」、 ルカ福音書4:40「手を一人ひとりに手を置いていやされた」と記されていることです。その人々をマルコ福音書では、ただ癒しとしか書かれていませんが、 イエス様は、神の子ですばらしい力をお持ちなのだから、みんないっぺんに病を治してしまえばいいのに、と思ってしまうのですが、イエス様は「一人ひとり」手を置かれ癒されるのです。 私たちのさまざまな悩み・苦しみをひとつひとつ丁寧に人格的な交わりの中で、癒されるのです。さらにその後、イエスの評判を聞いた人々が、夕方になって押しかけてきます。 なぜ夕方かと言えば、安息日は、病気を治してもらえないことと、律法学者たちに教えられており、人々は安息日が終わる夕方を待ってイエスの所に来たのです。


2.病の辛さ

 私は、小さい時、小児ぜんそくを持っていましたので、気温が急激に変わる季節の変わり目になると、決まって発作が起きました。 今のようにすぐ効く薬もありませんでしたから、一晩中、肩で息をしながら呼吸困難な状態で過ごしました。 子ども心にこのまま息ができなくなって死んでしまうのではないか、そんな風にも思いました。また、発作が怖くて体育も休みがちになり、性格も消極的になったように思います。 ぜんそくという病気がなかったら、かけっこでビリになる回数も減って、もっと活発な子どもになったと思います。事実、病気は人生を変えてしまいます。 病気は絆を断ち、人を孤独にします。それまでの予定をすべて台無しにしてしまうのです。その孤独の究極の形が、死です。

 たとえ大病でなくとも、今、この時も人には言えない、理解してもらえない病と孤独に闘っておられる、兄弟姉妹もおられることだと思います。 そして、一番深刻なこと、それは神を疑い、「神に見捨てられた」と神に失望するということなのです。

 石井という牧師は、「祈れない日のために」という本の中でこんな祈りの言葉を書いています。 「神様なぜ人は苦しまねばならないのですか なぜ憎しみを持つのですかなぜ裏切られる痛みがあるのですか なぜ病苦があるのですか  なぜ不慮の事故に遭うのですか なぜ私だけがひどい目に遭うのですか」これらの言葉は、人間の真実の叫びだと思うのです。


3.主イエスと病気

 主イエスは私たちのさまざまな悩み・苦しみをひとつひとつ丁寧に人格的な交わりの中で、癒されるのです。 病で12年苦しんでいた女性が、衣に触れて癒された、あの時も、主は人格的な交わりを求めて、「私に触れたのは誰ですか」と言われました。 今日の聖書には病人の言葉は記されていませんが、イエス様はきっと優しく・希望に満ちた言葉を一人ひとりにかけておられたと思うのです。

 そして何より主が回復したかったもの、それは、主なる神様との関係の回復だったのです。主イエス様の本当の救いは、「罪」からの解放でした。病は一時のものです。 しかし、神との関係は永遠につながる事柄なのです。

 病の痛みは苦しい物ですが、神様との関係がしっかりと保たれていれば、病の中にあっても讃美歌を歌い、喜ぶことができるのです。 先ほど紹介した石井牧師の祈りには、実は次のような言葉が続くのです。「なぜなぜと問い続けて言っても何も答えのない暗い日々がありました。 中略 私の人生のすべてに、神の支配と摂理のあることを知りました。どんなこの世の不幸も神の愛から離れさせることは絶対にないのだという神の約束を信じて生きられるようになりました。」と。


4.私たちへの適用

 主イエス様の働きは病気の治療が主なる目的ではなく、心の痛み・悲しみ(究極的には神との断絶)からの回復でした。家族や共同社会、そして神との関係の回復です。

 主イエスは、神様との関係が回復する事を宣言するために、私たちの世界に来て下さったのです。これが主の癒しなのです。 また、癒すという意味のギリシャ語には「仕える」という意味も含まれています。主イエスが病を癒される時、主は私たちに仕えられたのです。

 私たちもまた、癒され、み言葉を運ぶことによって、癒すものとなりましょう。