渋沢教会
更新日:2015.03.27

3月15日 御言葉の説教「旅の始まり」

大井 啓太郎牧師
イザヤ61:1
マルコ1:35〜45

 

 主イエス様は、祈るために朝早く暗いうちに起きだしてシモン・ペトロとアンデレの家から離れた所に行かれました。 神様であるイエス様が、一体何を祈られたのでしょうか?父なる神様との関係を保つために、静かな場所で祈る必要があるとすれば、 人である私たちが、祈らないで生きられるはずがないことを、この聖句は語ります。 そして、主イエス様はこの祈りの中から、次にすべきことを見出されました。こうして主の宣教の旅が始まりました。 しかしそれは決して思い通りにはいかない旅の始まりでもありました。

 ある日、重い皮膚病を患っている人が人の目など構わず主の前に進み出ました。「み心ならば、私を清くすることがおできになります」と主に癒しを願いました。 主は深く憐れんで、その人に触れて、癒されたのです。主は私たちの痛みを癒してくださいます。 それは体や心の痛みだけではなく、神との断絶という痛みをも、取り除いてくださるのです。 主の優しく・力強い手によって、この人は癒されたのでした。

 主は、この人を立ち去らせようとしました。ここで、私たちはあれっと思うのです。主はこの人には私に従いなさいとは言われなかったからです。 かえって、黙って帰りなさいと言われただけなのですから。ここから分かるのは、人にはいろいろな召しがあるということです。 みんながみんな、主に救われたからと言って、牧師のように直接伝道の道に進まなくてもいいということです。自分に起きたことを人々に示すだけの伝道というものがある。 しかし、この人は主イエス様の言いつけを守らず、多くの人々に言い広め始めたのです。人々は、その奇蹟のわざのみを求めるようになり、 押しかけるようになってしまったのです。このことによって、主の新しい教えの部分よりも人々は、奇蹟を求めるようになったのです。 それでも主との旅は驚きと喜びに満ちています。共に従って行きましょう。