渋沢教会
更新日:2015.05.09

4月12日 御言葉の説教「もう駄目だと思えたら」

大井 啓太郎牧師
ホセア6:6
マルコ2:13-17

挨拶

 おはようございます。先週は、肌寒くあいにくの天気でしたが、主の復活をご一緒にお祝いでき、また、礼拝堂の後ろに飾られていますが、 平さんが準備してくださった渋沢教会の夢の桜も満開になって嬉しいイースターでした。 しかし、実をいうとこのイースターを平さんご夫妻の歓迎会も兼ねようと昨年小会で話しあっていたのですが、すっかり司会をお願いしてしまって忘れていました。 ぜひ今週行われるナルドの旅で歓迎してあげてください。

 また、今日は昨日までの雨もやみ、気持ちのいい朝となりました。 午後には、イースターを楽しもう会がありますのでどうぞお時間のある方はパンくい競争に参加して、盛り上げてください。

 それでは、いつものように、お近くの方と主のみ前に集うことができたことを感謝して、「あなたに平和があるように」という意味の「シャローム」 「エイレーネー」「エレーネー」とご挨拶しましょう。どうぞ。


1.聖書より 徴税人レビ

 さて今日与えられています聖書箇所、マルコによる福音書2章13節から17節は今お読みしたように徴税人レビ、 このレビはユダヤ人同士が使う名前でギリシャ語ではマタイです。 そのマタイを「私にしたがってきなさい」と招かれた箇所であり、徴税人マタイを通して示される主イエス・キリストの到来が「義人ではなく罪人のため」 という意義を私たちに鮮やかに伝え教えてくれる箇所でもあります。

 13節を見ますと、主は「湖のほとりに出て行かれた」とあります。私はまだ聖地旅行をしたことが無いので、本当の所は分からないのですが、 写真で見る限り湖畔はなだらかな丘に続く所があり、きっとそのような気持ちのいい所で主イエスは人々に自由に教えておられたのだと思うのです。 もしかしたら、会堂よりもそのような場所のほうが好きだったのかも知れません。少なくともイエス様は、インドア派ではなくアウトドア派だったのでしょう。 だからこそ、あの有名な野の花、空の鳥を見よと教えられたのだと思います。私も時々、明日を夢見る祈祷会を戸川公園で行います。 神様が作られた自然の中で、みことばに聞き、祈れるのは、最高のぜいたくに感じます。


 それはともかく、続く14節には「とおりがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて『私に従ってきなさい』と言われた。 彼は立ちあがってイエスに従った」とあります。全くこの出会いは意図的ではありませんでした。主との出会いは私たちにとっても、しばしばこのように何気なく、 普段の生活の中で起こります。ここに集っている愛する皆さんもまた、偶然とか、たまたま教会に家が近かったとか、 たまたま知り合いに誘われてとか「たまたま」という本当に意図しないところで教会と出会い、創造主である神の存在を知った方が多いのではないでしょうか?

 しかし、今日の主人公である、徴税人レビにとって主イエス・キリストとの出会いは、たまたまにしては大きすぎる人生の転換をもたらすことになるのです。 聖書によれば、主イエスの「私にしたがってきなさい」という言葉にレビは立ち上がってイエスに従った、つまり収税所の仕事を彼はしていたわけですが、 それらを全てそこにおいて、彼は主にしたがってしまうのです。ではレビはどうして従ったのでしょうか。また、従い得たのでしょうか。

 レビはその仕事の性質上、主イエス・キリストとすでに会ったことがあるかもしれない、たとえ会ったことがなかったとしても、 主イエス・キリストの噂は耳にしていたことでありましょう。病人や悪霊にとりつかれた者を癒し、「神の国は近づいた」と福音を語る人物。 しかし、自分には関係のない人物だと思っていたでしょう。少なくとも、主イエスが彼に語りかけるまでは。それはどうしてでしょうか。

 そのヒントとなるのは彼が徴税人という職業にあったことです。現代に生きる私などでも税金をおさめるという事になんとなく抵抗があり、 市役所で市民税などを納税している時はきっとあまりいい顔をしていないと思うのですが、当時の徴税人という職業は、 ユダヤ人が嫌った異邦の民ローマ帝国に仕える職業です。ローマ帝国の政策は直接の反感を避けるため、 また効率良く税を徴収するためにこのような徴税人をユダヤ人に下請けのようにさせていたのです。 徴税人はしばしば私腹を肥やすために規定以上に人々から税を徴収していましたから、強奪者と目され、 異邦人と接触していたことも罪人とみなされる原因でありました。16節には「なぜあなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」 というファリサイ派の人々の言葉が記されており、この徴税人という仕事が人々にとってどれほど軽蔑されていたかが分かります。 しかしレビはその仕事をしていた。レビがどのような経緯で徴税人になったのか、定かではありません。富を蓄えることを人生の最大目的と考えて、 人々の侮蔑の言葉を甘んじて受けていたのか、ローマ帝国に支配されているという現実のなかでしたたかに生きていたのか、 また私たちがしばしば直面する現実のように、したい職業に就くことができない、生活のために仕方なくその仕事に就いていたのか、それは分からないのです。 しかし、言えるのは、誰も好き好んで、彼に語りかける者はいなかったということです。神の正しさを求め、神を愛している人であればなおさらそうだった。 主イエスが、自分の前を歩き過ぎようとしていても、彼は無関心でした。いや無関心を装うしかなかったのです。 自分が神の国から遠い罪人であることを、彼自身が一番知っていたのですから。しかし、主は彼の前に立ち止まった。そして語りかけました。 「私に従ってきなさい」と。この人は、何で自分なんかに声をかけたのだろう、そんなことを考える前にレビ、 後にマタイの福音書の著者となるマタイは今までとは全く違った人生の可能性を感じずにはおれなかったのです。そして、収税所から立ちあがり、イエスに従ったのです。


2.医者を必要とするのは

 この後、レビは自分の家に主を招き、食事を共にしました。多くの人が、それこそ宴会のように、集っていました。 徴税人という仕事は、いくらでも富を蓄えられる仕事でしたから、このようなこともできたのでしょう。 また、あのイエスがレビの家にいるということで、仲間が多くやってきたのです。しかし、その様子をファリサイ派の律法学者が見ていました。 この後の18節以下の所と関係するのですが、ファリサイ派の人々は、厳しく戒律を守り苦行や断食をして自らの宗教的正しさを自認していたような人達ですから、 主イエスが、楽しそうに食事をそれも、ローマ帝国の手先の徴税人や罪人としていたことに腹を立てたのだと思います。 16節「どうして彼ら何かと食事をするのか」それは、自らけがれを招く行為だと思っていたのです。 主イエスの元にはこのような「神に数えられない人々」が多く集いました。 弟子たちも徴税人や罪人(律法に忠実でない者たち) と一緒に食事を取ることは大きな戸惑いがあったはずです。


 しかし主は言われました。17節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。

 この言葉は、本当に大きな意味が込められていると思うのです。私たちの常識は、より正しいものが救われると思っています。 しかし、主が救おうとされたのは、主がご覧になっていた人は、主のまなざしは常に病んで苦しむ人に注がれている事をこの御言葉は語っています。 しかし、逆に私たちは目を背けてしまうのです。


3.私たちへの適用

 主は罪の直中に来られたのです。そして、私たちを死から甦りへと招いて下さっているのです。

 主がマタイに語った「私に従いなさい」という言葉は絶えず私たちへの招きの言葉です。 ファリサイ派の人々はその信条によってこの交わりを拒絶しましたが、主はホセア書から神が何を欲するかを語るのです。 主イエスは出自や職業、性などの全ての隔たりを越えて全ての者を神の国の食卓へ招かれますし、 また、主に建てられている教会はその事を現代(ここ)に実現できる場なのです。


 私は最初に徴税人マタイと主との出会いはたまたま出会ったと申し上げましたが、実はそうではなく、主は全ての人、 特に律法によって罪人とされた人を救うために来られたのでした。その中に私たちがいるのです。

 私たちもまた、主との出会いによって大きく人生の方向を変えられたものたちです。主と出会うまでは私たちは、地位や名誉や富を一生懸命求めていたのです。 しかし、幾ら求めても癒されなかった心の乾きを、罪の赦しを、永遠の命を主イエスとの出会いによってみたされたのです。 私たち自身がファリサイ派のように自らの正しさを誇ってはならないのです。