渋沢教会
更新日:2015.05.10

5月3日 御言葉の説教「聖なる休みをどう過ごす?」

大井 啓太郎牧師
サムエル上21:2〜7
マルコ2:23〜28

 

 主イエス様一行が、安息日に麦の穂を摘んで食べたことは、大きな問題でした。 安息日というのは、主なる神の祝福のしるしとして与えられた、契約の民イスラエルにとって他の6日間のどの日よりも大切で特別な日でした。 モーセの十戒の中にも「安息日を心に留め、これを聖別せよ。…いかなる仕事もしてはならない。 あなたも息子も娘も男女の奴隷も家畜もあなたの町の門に寄留する人々も同様である」と記されており、 (出エジ20:8、10)律法の中でも特に重んじられたのがこの安息日の戒めでした。天地創造・十戒と、主と共に生きる契約と恵みのしるしが安息日だったのです。 民数記15:32には、安息日に薪を拾ったものが死刑になったことが記されています。ですから主イエス一行が行った行為は、それだけで死刑に値するものでした。 それはファリサイ派の人でなくとも、十分知っていたことだったのです。「なぜ、安息日にしてはならないことをするのか」 とファリサイ派の人々が主イエスに詰め寄りましたが、神が天地創造の時に休まれ、そして人間に与えられた掟として、これ以上はっきりとした教えはなかったのです。

 しかし、主イエスはダビデの故事を引いて反論しました。さらに、マタイによる福音書では、 民数記28:9,10に記されている神殿に仕えている祭司のことを引き合いに出しています。祭司が神殿に仕えているなら、 主の弟子たちはそれ以上のもの(福音)に仕えている。そのための食事であるのなら、当然許されるべきものである、 というのが主の語られた事で、安息日の否定ではないのです。「安息日は人のために定められた。」とイエス様は言われました。 私たちは、神の教えは、神からの一方的な掟と理解しがちですが、その本質は、人のためなのです。

 主の定めた大切な日だからこそ、行うことがある、思うことがある。 安息日の教えは、私たちにどこまでも自由に、そしてどこまでも真実に主の日を過ごすことを指し示します。