渋沢教会
更新日:2015.06.21

6月7日 御言葉の説教「主イエスのたとえ@種まき」

大井 啓太郎牧師
イザヤ6:8〜13
マルコ4:1〜20

 

 主イエス様が、語られたこの種まきのたとえにおいて、どうして弟子たちだけにはたとえが解き明かされて、民衆にはイザヤ書6章のように「隠されて」いるのでしょうか?実は、このたとえは、このことを考えることが重要なのです。

 たとえは事物を簡単に説明する場合と謎を持たせて考えさせるという相反する作用があります。このたとえは後者です。主は福音を出し惜しみしたのではなく、同じたとえが記されているマタイ13:10にあるように弟子たちが更に「近寄る」事を望んだのです。分からないから考え、そして尋ねる、そしてしっかりと心に残させるということを主はされたのです。民衆の中にも、同じように質問してきた人々には、それがファリサイ派の人であろうと、主は丁寧に答えられていたことを示す聖書箇所は数多くあります。しかし、自ら考えようともせず、ただ有名人を見るように来ただけで、去って行ってしまう人々も確かにいたのです。

 このみ言葉を自分に照らし合わせてみて、自分はみ言葉が根付いているだろうか、実を結んでいるだろうか、と自己吟味することは有益です。イザヤ書では、神は試練を与え、よい実を残そうとされていることが分かります。試練や誘惑にあって、私たちの信仰が本物であるのかどうかが分かるのです。

 そして、もう一点良い種はあるのです。しかし、どこが良い土地か分かりません。それを撒き続けることが大事なのです。み言葉を伝えるということも一度だけでは相手にされないかもしれませんが、何度も何度もアプローチすることによって、相手の心が動くということもあるのです。素晴らしいみ言葉という種をまこう。