渋沢教会
更新日:2015.07.20

7月5日 御言葉の説教「なぜそんなに恐れるのか」

大井 啓太郎牧師
出エジプト14:8-14
マルコ4:35-41

挨拶

 おはようございます。今朝も雨の朝を迎えました。先週の日曜日の午後、高座教会で「日本はどこへ向かうのか 戦争と平和の岐路に立つ今を考える」 という講演が行われました。今国会で審議されている安保関連法案について、いかに憲法違反の疑いがあるかを 講師の東大の大学院教授の高橋先生は分かりやすく説明しておられました。このことに少しでも関心のある方なら、この法案の違憲性ははっきりしているのです。 しかし、周辺国との摩擦、先が見えない、いつ何時攻撃されるか分からないといった不安が、この法案を進めようとする人々の背景にあるのです。 先生はワイマール憲法がナチス・ドイツによって無力化されたことを話されました。憲法を否定するような法律によって、ナチス・ドイツは侵略戦争を遂行しました。 いざとなったら、憲法なんて関係ないという考え方は、ナチス・ドイツと同じ考え方だと。平和憲法をもちながら、 戦争放棄と言いながら戦争をすればまさにワイマール憲法の二の舞です。講演を聞きながら、本当に今私たちは岐路に立っていると思わされました。 どうぞ、この国のためにお祈りください。


 それでは、いつものようにお近くの方と主のみ前に集うことができたことを感謝して、「あなたに平和があるように」という意味のヘブライ語の 「シャローム」ギリシャ語の「エイレーネー」「エレーネー」とご挨拶しましょう。それではどうぞ。


1.聖書から

 さて、今日与えられている記事は、マタイ・マルコ・ルカに記されている記事ですが、たいていマルコが短く説明し、他の福音書が長く説明しているのですが、 この記事は逆にイエス様が寝ていた場所の説明を船の艫、つまり船尾としていたり描写が細かく、 漁師であったペテロがこの出来事をほんとうに驚きながら話した様子がありありと分かるようです。

 主イエス様はガリラヤ湖のほとりで、神の国について人々に教えておられました。主がなされる多くの癒しや、主が語られる神の国についてのたとえに、 ある者は驚き、感動し、そして、ある者はその意味が分からずにいました。弟子たちの多くもまた、主が語られるたとえで示された福音を、 主ご自身から解説していただかなければ、しっかりと理解することが出来ないのでありました。

 そのような弟子たちでしたが、主は愛されて、たとえの深い意味を説明されました。 と同時に主は、説き明かしではない方法、つまり、頭で理解するという方法以外でも、教えようとされたのです。それが「向こう岸に渡る」という行動でありました。 向こう岸はゲラサの地、つまり異邦人の土地です。主イエスは異邦人のいる地方に行こうと言われた。朝から御言葉を説き明かし、 その説き明かしを聞きながら、弟子たちは人々の世話もして、疲れていたことでしょう。誰よりにも増して、主ご自身が疲れていたはずです。 しかし、主イエスは全ての民を分け隔てなく愛して、福音が、ご自分が必要とされる地を指し示されたのです。多分、どうしてこんな夕方にまた、 あまり会いたくもない異邦人のいる向こう岸まで船を漕がなきゃいけないのかと思った弟子や、 「ははぁ、話も一区切り付いたけど、人々のいる岸に戻ったら休めないから向こう岸にいくんだな」と独り合点した弟子もいたでしょう。 暗闇が迫っている時刻に船を漕ぎ出すことは、少々危ないことだが、元漁師のペトロやアンデレたちのような船の扱いに慣れている者もいるから、 すぐに向こう岸に着くであろう、そのように思っていた弟子もいたに違いありません。しかし、そのような弟子たちの勝手で安易な思惑は、 後に起こる激しい突風によって見事に吹き飛んでしまうのです。舟はいつもの通り岸を離れました。


2.ゴムボート釣りを通して

 この情景は、私にとってはペトロのようにとてもリアルに感じられるのです。 というのも、つい先日私は平兄と真鶴までいって釣りをしたのですが、その時初めてゴムボートで釣りをしたのです。 私が釣りが好きだということを知っておられる方も多いと思うのですが、なかなか堤防から釣れない自分の腕の未熟さを棚に上げて、沖に出れば魚が釣れると、 少し散在して中古のボートを手に入れたのでした。空気を入れ、荷物を入れ、そして岸から離れました。ある程度沖に出てアンカーという錨をおろして釣り始めました。 アジやカワハギがつれて、それは水曜祈祷会で食べたのですが、すぐに私たちにとんでもないことが起きました。 それは船酔いでした。平兄はもう、グロッキーになり、釣りどころではなくなりました。そして横になったのです。 ですから、この聖書の記事を読んだ時、イエス様も疲れていて船酔いしたんじゃないかと思ったのです。 それは聖書には書いてありませんが、少しの波でもそんな状態ですから、聖書に書かれているような突風が吹いたら、 本当に生きた心地がしないということが本当によくわかるのです。

 弟子たちは、主イエスを起して「私たちがおぼれても構わないのですか」といいました。 向こう岸に行こうと言ったのは、あなたじゃないですか、どうか助けてくださいという、弟子たちの心の声が聞こえてきそうです。 そのような弟子たちの姿に主は「黙れ、静まれ」と風と湖に向かって言われました。するとそれまでの波が嘘のようにすっかりなぎになったのです。 なぎというのは、波のない状態です。主は言われます。「なぜ怖がるのか」と。

主の、風や波をも従わせる力を目の当たりにして、イエスがキリストであることを心で学ぶのです。主はそのようにして彼らの信仰を育てたのです。


3.現代に生きる

主は私たちにも向こう岸に渡ることを求めておられます。12弟子たちがそれぞれつぶやきながらも、主に従い、そこで主の大いなる業を見て心で学んだように、 私たちも向こう岸を目指して主に従う時、自らの弱さと共に主の力強い導きを新たに感じることでしょう。 クリスチャン人口が1パーセントの壁を超えられないという私たちの国の事実は、真理を知らずにさまよっている人々が多いことを意味するのです。

 誰でもない私たちを主は招いておられます。「あなたの信仰の向こう岸」に主が招いているのです。時に大波や大風が私たちの人生に吹いてきます。 そのような時主は言葉で嵐を静めました。私たちは嵐ですら治めたもう主に従っているのです。 確かに多くの困難があるのですが、主が共にいて下さるので、私たちは恐れつつも恐れることなく歩む事ができるのです。