渋沢教会
更新日:2015.08.28

8月2日 御言葉の説教「主イエスさえ」

大井 啓太郎牧師
イザヤ11:1〜5
マルコ6:1〜6a

 

 イエス様は、ナザレに帰り、安息日には会堂に行き、教えられたのです。この時読まれた聖書箇所は、ルカ福音書4章18節では、 イザヤ書61章と記されています。人々は「あの大工の息子のイエスが、これほど立派になって帰ってくるとは。」と驚き、つまずいたのです。 人々のつまずいた原因、それは、あの12年病の中にあった女性のように「ただ信じること」ができなかったのです。 大工、マリアの息子、私たちと一緒に住んでいる姉妹。まったく、私たちと変わらないではないか。そのような思いが主の本当の姿を隠してしまったのです。 私たちも、本人ではなく、仕事や地位など変な所で人を判断してしまうことがある。まさに、人々は主の外見だけをみてしまったのでした。 ですから、人々は信じる心ではなく、何か見世物を見るかのように奇跡を期待していたのです。 そのような人々に対して、主は奇跡を行うことがお出来にならなかったと、聖書は不思議な書き方をしています。 信じない人々の前では奇跡を行うことができないとはどういうことなのでしょうか。

 その本当の所は分かりません。ただ先々週読んだ12年もの間病の中にあった女性は、イエス様から勝手に力が出て行くほど信仰の波長が合っていました。 そのことから私たち自身の中にある、信じるという思いも癒しには大切な要素なのだということを思うのです。

 福音を一番に伝えたい人に伝わらない。それは悲しいことです。福音は日本のような社会だと異質なものとして歓迎されない面があります。 主イエス様さえそうだったのですから、奇跡を起こせない私たちならなおさらです。しかし、希望はあります。 それは、主が既に死に勝利されておられるということです。十字架の贖いはすでになされているのです。 私たちはその事実に喜んで、日々の生活をしていけばよいのです。そうした喜びの姿が、何よりの証しとなるのです。