渋沢教会
更新日:2015.10.03

9月6日 御言葉の説教「心から出てくる汚れ」

大井 啓太郎牧師
レビ11:24〜25
マルコ7:1〜23

 

 今日の箇所はファリサイ派の人々が、主イエス様の弟子たちの食事の前に手を洗わない姿を見て、主イエス様に尋ねたことが記されています。 神の律法を重んじていたユダヤ人は汚(けが)れということに非常に敏感でした。 エジプトを脱出した際に神がモーセに与えた十戒やその他多くの戒めが、彼らユダヤ人の国民としてのよりどころだったのです。 それが少しずつ拡大解釈されて、『言い伝え』として律法と同様に考えられていましたし、律法学者やファリサイ派の人々はさも神の掟のように教えていたのです。

 それに対して主イエス様は6-8節にあったように「神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と反論されました。 その根拠が10-13節にあるような、律法と彼らの言い分の矛盾でした。主はさらに人々に言いました。 15節「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」と。 主はただの衛生的か不衛生かを言われたのではなく、神の前で清いとはどういうことか、汚れているとはどういうことかを示そうとされたのです。 主は律法で汚れているとされた人々と積極的に接し、病人の汚れた傷口をさわって癒されました。主イエス様にとって、 神の教えと人が理解していた律法は同じものではなかったのです。21-22節「みだらな行い、盗み、殺意……」このようなものこそ、汚れだと語ったのです。

 主が舟に上がると風は収まりました。弟子たちはここでも、主イエスの不思議さに驚きました。 弟子たちはつい先ほどまで、5000人の給食の出来事を体験してきたばかりです。それでも疑い、驚いてしまう。 いつも助けられているのに、そのたびに主を見失い、疑ってしまう私たちと同じです。彼らはやっと陸に上がることができました。 しかし、その場所は当初の目的地であるべトサイダではなく、ゲネサレトだったのです。

 私たちは、罪赦され清められたクリスチャンですが、もし聖霊の洗剤で漬け置き洗いされたら、私たちから何が出てくるでしょうか? 心の奥の方からどす黒いものがきっと、出てきてしまうと思うのです。私たちは完全にきれいになれないからこそ、毎週神の前で、罪の告白をし、神様に洗ってもらうのです。