渋沢教会
更新日:2015.10.03

9月6日 御言葉の説教「心から出てくる汚れ」

大井 啓太郎牧師
レビ11:24-25
マルコ7:1-23

挨拶

 おはようございます。9月入りすっかり朝晩涼しくなりました。何年も地中で過ごし、ひと夏だけ成虫として精一杯生きた蝉の死骸を見ると、 夏の終わりを感じます。今日は秦野市は朝、避難訓練がありました。私は参加しませんでしたが、入口の所に黄色い旗をだして安全を知らせました。 箱根や、桜島など日本全国火山活動も活発化していますから、どうぞ皆さんも緊急時のことを話しあっておいてください。 また、縁起でもないことをと言われるかもしれませんが、万が一のことを考えて自宅以外の緊急連絡先をお知らせください。 特に礼拝にお一人で来られている方は入院した時など連絡がつかなくなる場合が予測されますのでよろしくお願いします。


 それでは、いつものようにお近くの方と主のみ前に集うことができたことを感謝して、 「あなたに平和があるように」という意味のヘブライ語の「シャローム」ギリシャ語の「エイレーネー」「エレーネー」とご挨拶しましょう。それではどうぞ。


1.恐ろしかったカーペットの汚れ

 さて、先日我が家の居間に敷いてあったカーペットを洗いました。 薄いものでしたが、さすがに洗濯機には入らなかったので、コインランドリーに出そうとしたのですが、その前に少し手洗いしようと思い、 浴槽に水を張って洗剤を入れて漬け置き洗いをしました。30分ぐらいでしょうか、するとどうでしょう、 真っ黒とはまた違うこの世のものとは思えない色の汚れが浮き出てきたのです。水を換えもう一度洗いましたが、やはりどす黒い水になりました。 それからコインランドリーに妻が持っていったのですが、持って帰ってくる途中も砂が出てきたそうです。 また水につけたら、もしかしたら黒くなるかもしれません。いくら洗ってもなかなか奥の奥まで洗うことはできません。 汚れが染み付くとはこういう事なんだと改めて驚きました。そんな上で平気で寝転がっていたのですから。


2.聖書から ファリサイ派の人たちの言い分

 さて、今日のみことばの主題は「汚れ(けがれ)」それも心から出てくる汚れということです。 今朝与えられた聖書箇所では、ファリサイ派の人々が、主イエス様の弟子たちの食事の前に手を洗わない姿を見て、主イエス様に尋ねたことが記されています。 神の律法を重んじていたユダヤ人は汚れということに非常に敏感でした。エジプトを脱出した際に神がモーセに与えた十戒、 そして多くの戒めが、彼らユダヤ人の国民としてのアイデンティティ、よりどころだったのです。今日読んでいただいた旧約聖書レビ記はその一部ですが、 神が聖なるお方ゆえに、とことん不浄を嫌いました。それが少しずつ拡大解釈されて、律法には書かれていない、 例えば今日のようなことも、『言い伝え』として律法と同様に考えられていましたし、律法学者やファリサイ派の人々はさも神の掟のように教えていたのです。


3.主イエスは

 それに対して主イエス様は6-8節にあったように「神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と反論されました。 その根拠が10-13節にあるような、律法と彼らの言い分の矛盾でした。主はさらに人々に言いました。 15節「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」と。 16節はこの聖書にはありませんが、マルコの最後の所に他の古い聖書には「聞く耳のある人は聞きなさい」という言葉があることを示しています。 主はただの衛生的か不衛生かを言われたのではなく、神の前で清いとはどういうことか、汚れているとはどういうことかを示そうとされたのです。 主は律法で汚れているとされた人々と積極的に接し、病人の汚れた傷口をさわって癒されました。主イエス様にとって、 神の教えと人が理解していた律法は同じものではなかったのです。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、 人の中から出てくるものが、人を汚すのである」21-22節「みだらな行い、盗み、殺意……」このようなものこそ、汚れだと語ったのです。


 私たちは、罪赦され清められたクリスチャンですが、もし聖霊の洗剤で漬け置き洗いされたら、 私たちから何が出てくるでしょうか?先ほど話したカーペットのように見た目はきれいでも心の奥の方からどす黒いものがきっと、出てきてしまうと思うのです。 私たちは完全にきれいになれないからこそ、毎週神の前で、罪の告白をし、神様に洗ってもらうのです。


4.『ベン・ハー』を見て

 私は先日、改めて『ベン・ハー』をみて当時の人々の生活を思い巡らしました。 汚れたものとされた重い皮膚病を患った人々は、隔離され、生きる価値のないものとされ忌み嫌われていました。 そのようなレッテルを張られて希望のない毎日を送る人々に希望を与えるため、主は来られたのです。それがどれほどありがたいことだったか。


5.教えられること・適用