渋沢教会
更新日:2015.10.28

10月11日 御言葉の説教「何か見えるか」

大井 啓太郎牧師
エレミヤ1:11〜13
マルコ8:22〜26

 

 イエス様の一行がペテロたちの故郷べトサイダに着いた時、人々が目の不自由な人を主の元に連れてきて、触れていただきたいと願いました。 ここでも人々の関心は、その人の癒しそのものではなく、主が奇跡を行うかどうかということだったのでしょう。 マタイ11:21では、不信仰な町として名前が挙げられています。そのようなことからもこの町の人々が、主イエス様たちに好意的ではなかった事が分かります。

 主は彼を村の外に連れ出しました。そして、前回と同じようなやり方で癒されたのです。主はその人に、「何か見えるか」と聞かれました。 彼は最初はぼんやりとしか見えなかったのです。私たちは主に癒していただけるのだから、すぐに不思議な力で治ってしまうように考えがちですが、プロセスがあるのです。 同じ事は創世記の天地創造の時にも言えることですが、熱心なクリスチャンほど、ぱっとできたと考えてしまう。イエス様の奇跡もすぐに行われると考えてしまうのです。 しかし、聖書は神の力全てをそのようなものとして記していないのです。この人も徐々に見えてきたのです。そして言いました。「人が見えます。 木のようですが、歩いているのが分かります」すると、イエス様はもう一度手を目にあてられました。すると彼ははっきりと見えるようになったのです。 このことは、私たちの信仰の歩みと重なる所なのです。私たちは、最初主がどのような方なのか全く分からない。 しかし主と出会い、何度も主の不思議なみわざに触れて、だんだんとそれが意味することが分かってくるのです。

 それでも先が全く見えない時はあります。しかし「何か見えるか」と主が聞かれる時、そこには確かに主の温かいまなざしが注がれているのです。 この人はもう今までの自分に戻れません。新しい世界へと歩み出すのです。