渋沢教会
更新日:2015.12.23

11月8日 御言葉の説教「子どもは天でも宝」

大井 啓太郎牧師
箴言17:6
マルコ10:13〜16

 

 主イエス様の元に子どもを連れたおとなが、「触っていただくために」大勢やってきました。手を置く事は創世記でヨセフが息子たちを手を置いて祝福している場面が記されていますが、祝福とは神の守りを受けるということです。当時の子どもは、衛生面や栄養状態など想像以上に過酷な状況だったと思われます。しかし、子どもを愛する親の気持ちはいつの時代も変わりません。病気の子どもがいる親であれば少しで良くなるように、また、貧しい生活を余儀なくされているものにとって、子どもは少しでも豊かな生活ができるようにと願って子どもを主の元に連れてきたのです。子どもも主イエス様の周りを取り囲んだのでしょう。

 しかし、そのような親たちの前に弟子たちが立ちはだかりました。「叱った」と書かれています。「なんで、こんな子どもを連れてくるんだ」と。当時律法を公の場で学ぶことが許されていたのは成人男性でした。イエス様の話を聞いても分からない、無価値である。それが弟子たちの気持ちだったのでしょう。しかし、そのような弟子たちに対して主は憤られたのです。主イエス様が弟子たちにたいして憤ったのは、聖書においてこの記事だけです。それほど、主はこの弟子たちの態度を怒ったのです。そして言われました。「神の国はこのような者たちの…」主は何を子どもたちに見ていたのでしょうか?

 私たちは、ややもすれば教会への貢献を信仰の強さ、深さと誤解してしまいます。全てを捨ててついていくということがことさら強調されたりします。しかし、主はそのように誤解している人たちに「こどものように」何もできなくとも、ただ信じてしがみつくような信仰が大切だということを伝えたかったのです。私たちの信仰の目標が、実はここにあるのです。