渋沢教会
更新日:2015.12.24

11月22日 御言葉の説教「誰が一番偉いのか」

大井 啓太郎牧師
詩編62:1-9
マルコ9:30-37

1. 挨拶

 おはようございます。薄曇りの朝を迎えました。先週は教会総会が行われ、来年の計画を分かち合いました。財政など厳しい面もありますが、主に従って歩んでまいりましょう。

 また今日は、マッタ・デ・サンジョアン伝道教会の石塚先生と竹並長老が出席して下さっています。明日の中会会議に出席のご予定です。昨日夕方に石塚先生から、お電話がありもっと早く知っていれば、説教をお願いできたのですが、残念です。


 それではこの朝も、主の前に共に集うことができたことを感謝して、お近くの方同士「平和があるように」と挨拶をしますが、今日は「シャローム」、「エイレーネー」ではなくポルトガル語のあなたに平和があるようにという意味の「A paz esteja contigo ア パース エスティージャ コンチーゴ」主の平和「ア パース デ セニョール」といって握手を交わして下さい。それではどうぞ。


2.聖書から

 さて、今朝与えられているマルコ9:30-37を見ていきましょう。まず、主イエス様と弟子たち一行は汚れた霊に取り付かれた子どもを癒した後、人目を避けて、旅をしていることがわかります。ファリサイ派の人々や民衆の前で、奇跡をして大騒ぎになった後です。しかし信じない者はいくらたっても信じないのです。私たちもいくら有名で、トリックを見破ることができない魔術師が「私は神の使いである」といっても信じられないように、不思議な出来事だけ見ても何かしらの言いがかりをつけるものです。もし自分の偉大さや不思議さを見せるためでしたら、できるだけ多くの人に見せればいいのですが、しかし主イエス様の行う奇跡は、人間の痛み・苦しみ・悲しみに深い憐れみを覚えたときに、(ギリシャ語の「憐れむ」という言葉も日本語の断腸の思いという意味と同じですが、)発せられるものであり、全く次元の違うものでありました。それは、今日読まれた、聖書箇所の最初の部分に、主イエス様がこれから受けられる苦しみについて預言されている言葉からも、全くこの世の名誉とか栄光とは反対の道を進んでいることを主イエス様は全てご存知であったことがわかります。この預言は、2回目のものでした。弟子たちは、しかし、怖くて聞けなかったとあります。1回目はペトロが「そんなことを言うのはやめてください」といさめて、逆にイエス様に叱られましたが、今回はそれに懲りて、誰もその内容を聞くこともできませんでした。「親の心子知らず」とはよく言ったもので、まさに、弟子たちは「主の心、弟子知らず」で、そればかりか、彼らは彼らで、誰が一番イエス様に愛されているか、誰が一番偉いかを論議していたとあります。


3. 人間の真実

 弟子たちの議論は、そのまま私たちの心の内にある思いです。人は人より自分が優れていると思いたいか、その逆で自分に自信がないかです。私は自分に自信がなく相手より劣っていると考えてしまいがちなのですが、共にそれは本当の自分の姿ではなく、高慢と卑屈という同じ罪です。皆さんは人との人間関係で、どちらのタイプでしょうか。多くの人がこのような上下の関係に縛られていると思います。それぞれの個性と認め合えれば、よっぽど気楽になれるのですが…。このときの弟子たちも、誰が一番イエス様のおそばで食事をするかとか、イエス様の後を歩くのかとか、そんなことから順番を決める必要があったのでしょう。それが、いつの頃からか、誰が偉いのか、そんな話になったのではないかと思うのです。マタイ18章にこのマルコ9章と同じ内容の出来事がありますが、少し内容が異なります。マタイでは「神の国では誰が一番偉いか」という議論をして、弟子たちが進んで主イエスに尋ねたことになっています。少し神学的な高尚な論議をしています。しかし私はこのマルコの方が、実情にあっていると思える、よくわかる、面白い議論です。少し同情もできる気がします。私にも弟子たちの一生懸命さは伝わってきます。少しでも、イエス様の近くに座りたい。話がしたい。認められたい。


 私たちもよく、その土地で有名なレストランやお店に行くと、有名人がその店に来て、サインをしたり、そこのご主人と握手している写真がはってあったりするのを見て、「へええ」と感心したり安心したりします。ご主人もきっと、自慢なんだと思います。それは、当分先のこととして、たとえば、私たちも、イエス様の時代に生きていて、イエス様の後を歩いていて、民衆から「あのイエスさまのお弟子さん」というふうに思われ、人々から「お弟子様」と様までつけられて呼ばれたら、それは、気持ちがいいことだと思うのです。古い時代劇「清水の次郎長」で森の石松が「食いねえ、食いねえ、すし食いねえ」といって、次郎長親分の一番の子分は誰か、を聞く有名な場面がありますが、イエス様に従って自分もえらくなれる、そんな気持ちが弟子たちにはあったのです。


 しかし、主イエス様は、そんな弟子たちの前に子どもを立たせて35節「」と言われました。この言葉は、今ここに集う私たちにとって、聞くべきイエス様の言葉です。主に従うものとは、偉さを求めてはいけないのです。先々週の児童祝福式の時にも話しましたが、ただ母親を信じておっぱいにしゃぶりつく赤ん坊のように、神様にしっかりとしがみついて離さない信仰こそ、私たちの信仰の目標なのです。


4. 適用

 イエス様は、まさに人生を上昇思考ではなく、下降思考という逆転の発想で生きられた。事実、神の国から私たちの元へ下ってくださったのでした。私たちに仕えられた。それは私たちに新しい生き方を提示してくださったことでした。それはまさに古い生き方から、新しい生き方への転換を意味しています。

 先週私は研修に行って「リーダーシップ」について学んでまいりましたが、そこでも仕えるということを改めて教えられました。私たちも人々に仕えてこそ、リーダーとなることができるのです。