渋沢教会
更新日:2016.2.20

1月10日 御言葉の説教「人として試される私たち」

大井 啓太郎牧師
申命記24:1〜4
マルコ10:1〜12

 

 ファリサイ派の人々が、主イエス様を窮地に追い込もうとまた嫌な質問を吹っかけています。それは、離婚についてでした。当時離婚は、男性ができる権利のようなものでした。申命記にありましたが、夫は妻が気に入らなけれぱ、離縁状を書いて去らすことができました。ただ、当時と今では結婚や離婚に対する考え方、杜会通念が全く違うのです。まず結婚ですが、多くの場合、すでに幼い時に親同士で結婚相手を決めてしまっていました。主イエスの父ヨセフと母マリアもまた、そのように親が決めていたことなのです。その理由は、財産がしっかりと守られるようにするためでした。そして女性は子を産む道具のような扱いだったのです。では、なぜこの離婚の問題がイエス様を困らせる口実になったのでしょうか?それはイエス様がお答えになっているように、創世記では、神は男と女を作られ、結婚をさせたという考え方が一方ではあり、モーセが神から与えられた離婚することも良しとする考え方があり、矛盾していたからです。もし、離縁することを良しとしないならば、モーセの律法に背くことになります。よしと現状を肯定しても、創世記との矛盾は残ったままなのです。彼らは主イエス様の揚げ足を取りたかったのです。人々の前で恥をかかせたかったのです。

 しかしイエス様はあえて、「神は、男と女を作られた。…人は離してはならない」と語られたのでした。イエス様ははっきりとそのような、男性中心主義ではない、また家系中心主義ではない、神様が定めた本当の結婚の在り方を提示されたのでした。制度ではない、自分の一部として愛しなさいと主イエスは語られるのです。

 現在、離婚は一般杜会においてタブーではなくなりました。離婚までしなければならない不幸な結婚は確かにあります。しかし結婚生活の中で、私たちは「愛する」ということを人として試されるのです。