渋沢教会
更新日:2016.3.7

1月24日 御言葉の説教「間違った願い」

大井 啓太郎牧師
詩編27:1〜4
マルコ10:32〜45

 

 主イエス様は、ユダヤ当局に捕まり十字架にかかることを覚悟でエルサレムへの道を進まれました。弟子たちは驚き恐れましたが、そのうちのゼベタイの子ヤコブとヨハネは、主がユダヤを治める栄光の座に着くものと思い、他の弟子たちを出し抜いてイエス様の右と左の座に座らせてほしいと願ったのです。それに対して、主イエス様は二人に「私の飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるか」と問われました。これは、イエス様と苦しみを共にするという意味です。二人の弟子は何も考えず、いや心から「できます」と言いました。イエス様は、彼らが心からそう言っていること、そして実際そのような運命になることを知っておられましたが、それは父なる神様が決めることだと諭されたのです。

 しかし、話はそれで終わりませんでした。他の10人の弟子たちがこの二人の願いを聞いて怒り出したのです。実は彼らもそのような願いを心の中に秘めていたからです。イエス様はこのような弟子たちの姿を見て、その願いが見当違いであることを諭されました。一般にこの世界では偉い人々は、支配をする。しかし、神の国での偉さは、仕えることにある。これが神の国の偉さなのだ。人の子(王)として私は来たが、それは仕えられるためではなく、仕えるために来た。あなた方はその道を歩むのだ、と。イエス様は、そのことをはっきり分からせるために、十字架に掛かる前、奴隷がするように弟子たちの足を洗われたのでした。

 私たちは、神様に対してどのようなことを願っているでしょうか。この二人の弟子たちのように、自分のためにだけの願いをしていないでしょうか。「病者の祈り」と題された祈りにあるように、私たちは全く自己中心的なものを求めてしまいますが、主なる神は最善のものをお与えくださるのです。神が与えてくださるものには、甘いものだけでなく苦いものがあるのです。それも私たちに必要なものなのです。祈りは祈る前にすでにかなえられている(マルコ11:24)とのみ言葉を思い出しましょう。